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メコン河開発メールニュース 2005年10月23日
メコン河上流中国部分(瀾滄江)のダム開発を批判的に分析した中国語紙の記事を紹介します。昨年1月に出されたやや古い記事ですが、瀾滄江本流ダム開発に関する中国国内での論調は肯定的なものがほとんどでしたので、意味のある記事だと思います。
メコン・ウォッチの大澤香織(雲南・昆明)の翻訳です。なお長文記事なので、大澤が以下に見出しごとの簡単な説明を加えました。
漫湾ダム移転村に記者が訪問、移転住民から直接取材&インタビュー。 (テンバ/バは「土」へんに「覇」)
何大明博士の土砂堆積の研究結果。漫湾ダムの移転コスト、土砂災害コスト。
瀾滄江ダム計画概観。小湾ダムの詳細情報。ダム推進者の意見。ダムリスク。
本流ダムの越境影響。浚渫マイナス面も。中国がメコン河の流量を調節する。
2004年1月18日、経済観察報
仲偉志 記者
朝日の中、やや陰険そうにたたずむ漫湾(マンワン)ダムの前方で、40歳の張鵬(ジャン・パン)さんは風を切って走るワゴン車を止めた。このワゴン車で彼は毎日、漫湾と云県の長い道のりを往復し、客を運ぶことで家計を支えている。寒さで歯をカチカチ鳴らしながら彼は周囲の鋼色の山を指して言った−見ろ、田土覇(テンバ)村はこの山の上にあるんだ−外からやって来た住民は山頂から麓へと客を運び、逆にわれわれは麓から山の頂上へ客を運ぶんだ。
田バ村はもともとダム区で最も良い環境に恵まれた村だった。しかしその後、漫湾ダムによって川が堰き止められ、この何不自由ない恵まれた村は水没した。鎮住民の話によれば、田バ村の土は崩れ、魚は腐り、人々は村から逃れていった。現在の田バ村はさらに多くの住民が他の地域や山へ移転し、一軒また一軒とバラバラ散ってゆくに至り、もはや原型をとどめていない。彼らが団結して上訪(訳者注:住民が問題の解決を求めてより上級の政府機関に陳情に行くこと)する時にだけ、やっとこのダム移転住民たちは元々同じ村落にいたのだと気づくのであった。
王仕倡(ワン・シチャン)さんの家は山の中腹にあり、大多数の移民と同じように、日々、瀾滄江上の靄から聳え立つ大型ダムを眺めている。雲南の冬、彼は斧で薪をパカン、パカンと割り、湿気を含んだ炎が黒い煙を上げていた。6年前、彼が3万元の借金をして買った車は静かにそこに停めてある。当時、彼は車の鍵を非常に有難がって、心から大切そうに受け取った。運送業が上手くいくことを期待していたのだが、今ではその利息さえ支払えない状態だという。
では何故、車を買ったのですか?私は彼に尋ねた。
どのみち死ぬのであれば、賭けに出た方がましだと思ったのだ――早朝7時の光をたっぷりと浴びて、王仕倡さんの水タバコはチカチカと光っている。ダムが建設される前の1990年前後には、田バ村には一人当たり少なくとも一畝(訳者注:約6.67アール)以上の土地があった。わが家では毎年およそ3000斤(訳者注:1斤=500グラム、約150キログラム)以上の米を売っていて、1斤は8角(訳者注:1角=0.1元)になり、家は非常に裕福だった。その後、水田を失い、仕事もなくなり、もはや飢え死にするしかなくなったのだ。
漫湾発電所の建設後、ダム区の一人当たりの畑はもとに比べて0.58畝減少した。数が減っただけでなく土地の質も大きく低下した。元々谷間にあった比較的良質の畑は、現在のすべての畑地を合わせた約4畝より、更に1畝ほど多くの生産高があった。しかし発電所の土地に対する賠償は生産面積によって決められ、生産高によって決められたものではなかった。多くの専門家は、このような政策が不公平だと認識している。
しかし王仕倡さんがいる田バ村の村民は特別な待遇を得ていた。すなわち「農転非」(訳者注:それまで農民だった住民が、移転により農業以外の職業に転じること)である。聞けば当時、この移転政策ができあがった頃、村民たちは満足していたという。
数年後、王仕倡さんは戸惑いのため息をついた。「私たちは、非農業人口とは商品の穀物を食べられることだと思っていて、当時、これは非常に良いことだと思ったのだ。だが今では私たちは農民ではないし、工場労働者でもない。失業中の事務労働者でさえもない。私たちは何者でもない。」
雲南省統計局の調査によれば、漫湾ダムによる水没以前、移転住民の一人当たり平均収入は全省平均の63.7%よりも高く、1996年にダム建設が終わり水没した後には、およそ全省平均の約46%となり、その落差は非常に大きいものとなった。
雲南大学のアジア国際河川センター主任の何大明(へ・ダミン)博士は、現在、田バ村の問題が最も多いと話す。こうした状況が生まれた原因は、漫湾水力発電所計画が、まず計画経済期に設計され、建設は計画経済から市場経済への移行期に行われ、操業は市場経済期に行われたことにある。市場経済改革の後には田バ村の住民は「すべてが違う」と片付けられ、仕事も、耕す畑もなくても、ただ宙に浮いたまま、いくら上訪しても、問題はいつまでも解決されなかった。
山を越えて出稼ぎに出た住民たちもいたが、教育レベルが低いことから、彼らが稼いだ僅かばかりの賃金も騙し取られてしまう有様だった。
現在、田バ村の移転住民は発電所のゴミ拾いをして生計を立てている。こうした非農業者は記者に対して、私たちは一日中ゴミを拾って2、3角、運がよければ1元の収入が得られるだけだ、と語っている。
住民によれば、ゴミ拾いはまだまともな収入で、中には麻薬を売って生計を立てている人々もいるという。また漫湾鎮でよく見られるのは、数人の少年らが路上でぼんやりしたり、殴り合いをしたりしている光景だ。彼らは漫湾移転住民の子供たちで、家には仕事がなく、外にも仕事がなく、学校へ行くことなどなおさら無理な話だった。年老いて弱った老人は着る物も食べる物もなく、仕方なく春節の時期に政府が配布する救済の米、数キログラムで生活を維持するしかない。病気を治す金もなく、訪問者の目には青白い顔をした人々が映っていた。彼らはいまや人々のため息にも、聞き慣れている。
もはや土地を持たないため彼らは最低生活保障を受け始めているが、それも1人当たり20元しかない。発電所のすぐ近くにいながら住民達は電気を使用するのに何の恩恵も受けていない−電気が漫湾水力発電所から漫湾鎮の電力供給所に至り、ふたたび村に至って人々の家に戻ると電力価格は1角7毛(訳者注:1毛=0.1角)だったものが1、2元に値上がりし、彼らは使うことが出来ない。記者が午後に昆明から車に乗り、12時間の山道を経て漫湾に着いた時には、すでに日は暮れ、発電所の明かりを除いて山中には車のライトが光るのみだった。
彼らにとって受け入れがたい皮肉な事は−外から訪れた人がもし田バ村の移転住民と結婚した場合、彼らがその山の上に住むためには、田バ村が非農業世帯であるため、一律300元の「落戸費」を払わなければならないことだ。
このかつて従順だった村はダムによる大きな変化を受け、漫湾発電所の前でしばしば1000人ほどの座り込みを行っている。ワゴン車運転手の張鵬さんは、かつて移転住民を連れて景東(ジントン)県(訳者注:田バ村のある県)の町を訪れ、上訪をしたことがある。ある時、昆明での開会期間中に、景東県の県長は皆に向かって述べた。田バ村の話はすでに語り尽くした、国の高官の関心を引くにはもはや数人の命と引き換えにしなければならない、と。県長は非常に焦っているようでもあり、また全く手の打ちようがない様子でもあった。
漫湾ダムの影響住民は田バ村の人々だけではない。
漫湾ダムは雲南省西部の臨滄地区云県と思茅地区景東県の地区内に位置しており、瀾滄江8つのカスケードダム発電所開発の中で最初の事業である。政府のデータでは漫湾発電所の設計ダム高は126メートル、長さは449メートル、ダム総容量は9.2億立方メートル、ダム区内の堰水高度は70キロメートル、総発電量は150万キロワット、水没する畑は4670畝、林地は8422畝:移住人口は3042人:影響を受ける地区は大理州、臨滄地区と思茅地区におよぶ4県7郷である。
この聳え立つ大型ダムは、国家と地方が合資をして建設した最初の水力発電所で、水電部と雲南省政府の投資請負協力の契約合意により、地方レベルの漫湾事業管理局が成立した。これは中国大型発電所の目玉のひとつであり、漫湾水力発電所はかつて関連方面において重点的に宣伝される手本であった。
調査によればダム建設以前、事業建設部門は移転住民の大多数を就地安置(ダム区から〔訳者注:同じ峡谷内の〕山腹や山頂への引越し)として、少数――およそ300人余り――をダム区外への移転としていた。当時、支給された移転費用は非常に少なく、伝えられるところによると約3000元余りであった。
しかし建設工事の後、ダム区および事業の影響地区の生態環境は日増しに悪化している。かつて何度も雲南とチベットを横断し、山間部の流域に入り資源と環境について研究をしてきた何大明博士によれば、山々の植生は繁茂しているなどと思ってはならない、という。実際にはこれらの山々における水土流失は大変深刻であり、漫湾水力発電所は1993年に第一期工事が終了して貯水を開始したが、泥砂の堆積速度が非常に速く、わずか3年でダムの有効貯水容量の堆積率が既に15年の水準に達したという。また、水質悪化も深刻である。
同時に、漫湾発電所の影響を受ける人口はさらに増加し続け、またダム区の外へ移住する人の数も、事業当局の予測を超えてしまった。移転住民が次々と山の上に移り、土地を開墾したり樹木を伐採したりしたため、環境の悪化を招き、水土流失が激化、地滑りと土石流等の災害が頻発した。1993年の貯水後、非常に短期間で100余りの土砂崩れが発生した。1995年3月、短期間でのダム調節のために水位は10数メートル低下し、多くの山の斜面が土砂崩れを発生、多くの移転住民の家屋が破壊され、2次移転住民数は1000人にものぼった。財政的に元が取れない現地政府は、発電所の責任を問い正したが、発電所はこれが最後の土砂崩れであり、発電所には責任がないと言った。問題は未解決のまま結局、損失をかぶるのはやはり一般の住民なのであった。
何大明博士は山間部を横断した水土流失が一度暴発するとその後、収まることはない、と言う。西南地区の土砂堆積は、長江上流や華北地区と違い、多くの土砂が大粒で、堆積の影響はさらに深刻だと言う。彼は発電所は50年ですべて使用できなくなる、とみている。何大明博士は、1982年から1985年にかけて水利電力部昆明勘測設計院で働き、天生橋、魯布革、漫湾、柴石灘など大型水利水電事業の水文調査と設計を行ってきた。現在は、国内外で著名な国際河川研究専門家である。
こうなると、移民自身の生活条件がより悪化しただけでなく、また漫湾発電所の経済的利益と工事の安全もまた重大な危機にさらされていると言える。1998年、かつて水電部部長を務め、現在は全国政協副主席である銭正英(チェン・ジェンイン)元部長が漫湾ダム区を視察した際、非常に驚いて、改めてダム区の生態環境の整備を行うことを求めた。しかしその後、何年たってもその成果はあらわれない。その原因は、もし全面的にダム区の環境を改善するとすれば、現地の移転住民の行き場が大きな問題となるからであった。ある情報では、もともとは移転住民数は3042人だったが、現在その上にさらにダム区での移転が必要となった住民数は2900人余りにのぼっており、およそ元の移転人口の倍となった。今後さらに増加するかどうかについては定かではない。これも工事の初期予測を大幅に上回っている。
事情を知る人が明かしたところによると、工事にかかるコスト引き下げのため、漫湾発電所の計画プロセスにおいて移転住民数は意図的に減らされたという。例えば、現地住民の中でも家屋が水没する住民は移転住民として数え、田畑のみが水没する住民は、移転住民としては数えられなかった。こうした深刻な不公平な行いによって、弱い立場にある農民はほとんど他人に運命を任せるしかなくなったのだった。
こうした移転住民をすべて水力発電所で働く労働者にしたらどうか、という提案をした人もいた。しかし企業である水力発電所は、明らかにこのような大風呂敷を引き受けるわけにはいかなかった。政府にこれらをすべて任せ、移転住民が多すぎて政府の資金が適切なタイミングで間に合わなかった場合はどうするのか?
さらに大型ダムは生態環境に影響を及ぼすにも関わらず、水力発電がクリーン・エネルギーだと言うことは出来るのだろうか?その後、必要となる生態環境維持のためのコストは、発電所建設の際の総コストに含めるべきではないだろうか? ―現在の発電所建設は往々にして、ただ住民移転、水没による損失、ダム自体の建設費用コストのみから予算を立てられ、環境に与えるコストの面など公共物の損害については特に何も体系的に考慮されていない。こうした問題はやはり今後、重視されるべきだろう。
このように、漫湾発電所を皮切りとした瀾滄江流域開発計画の坂道を転がるような勢いは、止まるところを知らない。彼らの浮かれた心はこの東方のドナウと呼ばれる国際河川にいたる。
瀾滄江本流には瀾滄江―メコン河本流の総落差の90パーセントが集中している。多くが高山と峡谷であり、水力発電資源が豊富である。そのうち下流の772キロメートルの区間は落差882メートルにおよび、8つの開発計画がある。この8つの発電所は小湾(シャオワン)、糯扎渡(ヌォジャドゥ)のニつのダムを中心に、上流から下流の順に功果橋(コングオチャオ)、小湾、漫湾、大朝山(ダチャオシャン)、糯扎渡、景洪(ジンホン)、橄欖バ(ガンランバ/バは「土」へんに「覇」)およびモン松(モンソン/モンは「孟」へんに「力」)で、年間発電量の合計は741億キロワット時に達する。単純に工事の技術面から言えば、ダム壁の条件に恵まれており、工程量は少なく、単位キロワット当たりの投資は中国10大河川のなかで最も低く、水力発電工事業界のなかで“水力発電の宝庫”と呼ばれ、『全国国土計画綱要』(草案)のうち19の重点開発区の一つである。
漫湾発電所と大朝山発電所の建設発電に続き、景洪発電所の計画は2007年に建設工事が始められる予定である。総発電量550万キロワットの糯扎渡発電所の計画は2005年に施工が始まる予定である。漫湾発電所の上流70キロメートルの地点には世界一の高さのダム、中国第2の大型水力発電所――小湾ダムが施工中である。
漫湾ダムが数々の問題をもたらしたため、沿岸地区の社会、経済と生態環境は強烈な衝突をうみ、小湾発電所建設は多くの影響力を持つ人々に詰問されている。政策決定者は公共の利益を代表すべきであり、会社の利益のみを代表すべきではない、と鋭く指摘する人々もいる。しかし事業の進展は依然として止まるところを知らない。
銭正英副主席と国家電力公司水力発電の責任者が漫湾発電所を視察した1998年、彼らは小湾発電所のダム壁も視察した。最終的な結論は:小湾水力発電所の電力市場は省内では説得的なものであり、発電所は雲南の電力市場の需給を満たし、電力網の構造矛盾の面、その他の電源では代替不可能な問題も解決する、というものだった。発電所の技術面および安全面での問題について銭副主席は「小湾発電所の292メートルという高さのダムは、強度の地震発生帯での建設を予定しており、国内および世界の先端として各方面で大変重視されている。しっかりと科学技術研究の難関に取り組み、また設計と概算の上では一定の余地を設けるべきである」と述べた。
同年、中国科学院の院士かつ工程院の院長である清華大学教授の張光斗(ジャン・クァンドウ)院長は、水電水利計画設計総院の高安澤(ガオ・アンザ)院長の同伴のもと銭正英副主席のすぐの後に小湾水力発電所の現地調査を行って、発電所建設の必要性と緊急性、発電所建設工事技術などに関して意見と提案を行った。権威に後押しされれば、プロジェクトにどんな心配があるというのだろうか?
1999年1月30日、国家電力公司、雲南電力集団公司、雲南省開発投資有限会社と雲南紅塔実業有限公司は、昆明にて『瀾滄江水力発電開発有限責任公司発起人協議書』に署名し、それぞれの投資比率を29:31:28:12とし、その後、調整して27:29:24:20とした。この会社の主な任務は:水力発電における「流域、カスケード、迅速な、総合的」開発の原則を実行し、雲南省境内の瀾滄江、金沙江など流域で水力発電の迅速な開発を実行することであった。会社の成立後,まず最初は小湾水力発電所の開発であった。
1999年6月30日、雲南省電力集団有限公司は、雲南小湾発電所工事建設の前期準備が整った。この組織の主な人員は漫湾水力発電所の事業管理局からやって来た。瀾滄江上では、技術と管理人員が率先して“迅速に動き”始めた。
2000年3月20日から31日まで国家発展計画委員会の委託を受けて、中国国際事業諮問公司は全国20余りの水力発電に関する専門家を招き、小湾発電所事業の提案書についてアセスメントを行った。専門家グループは最終的に以下のような認識をまとめた:小湾水力発電所の建設は、雲南の経済の持続的な発展、資源の合理的な配置、雲南電力システムのエネルギー構造に利益をもたらし、市場需給と市場競争力および利益などの本面において、現在のところ雲南でほかに代わる電源開発事業はなく、この建設は将来における瀾滄江のカスケード・ダム開発を促進し、西電東送に好ましい基礎を与える。
事業当局の大騒ぎにも係らず、当時、国家計画委員会は未だ小湾水力発電所事業の具体的案を立てておらず、投資各方面における非常な焦りを招いた。国家電力公司と雲南省政府は、共同で積極的に国家計画委員に働きかけ、その専門家グループもこの建議書を批准するよう呼びかけた。各方面の努力によって、2000年6月5日、国家計画委員会事務所は正式に文書を出して小湾発電所建設は国家西部大開発の事業計画に入れられた。翌年、小湾水力発電所は国家15年計画開工建設の7つの大型水力発電所のひとつとなり、皆は大喜びをした。
2002年1月20日、総発電容量420万キロワット、保証出力177万8000キロワット、静態投資277億3200万元の小湾水力発電事業の開工では、2010年の第一基ユニット発電を予測、2012年にはすべての建設が完了することが保証された。これは中国三峡発電所以外では最大の水力発電所建設である。中国科学院と工程院、両院の会員である潘家錚(ファン・ジアジェン)氏は、小湾発電所建設の難しさは世界でも指折り数えるほどだ、と言う。
事業当局が提供した数字によれば、水没面積が204.06平方キロメートルに達する大型ダム、小湾発電所により約3万8837人の移転が必要となり、その大部分が農民である。黄河の小浪底(シャオランディ)発電所の万キロワット当たり950人、三峡発電所の万キロワット当たり465人に始まり、広西の竜灘(ロンタン)発電所の万キロワット当たり193人と比較してみると、小湾発電所は万キロワット当たりに必要な移転住民の数はわずか92人で、移転住民の数は他に比べ格段に少なく、比較をすれば大変良い事業であった。
小湾発電所によって水没する8県と7市は国家レベルの貧困県で、農民生活は赤貧状態にある。漫湾による移転住民がぞくぞくと山の上に移住したのに比べ、小湾発電所のダム区域内に居住している住民はすべて移民新村に移転することになっている。しかし記者が見たところでは、1999年と比べて小湾発電所の周囲の生態環境は依然として深刻な影響を受けており、しかもこれはまだ始まったばかりである。あるデータによると、現在世界には70余りのダム誘発地震があり、基本的にはみな100メートルを超すダムがうみだしたものである。小湾発電所の完成、貯水により、この生態的に敏感な地区であり、さらに強度の地震活発区にある世界一のダムは、将来さらに多くの不確定要素を生み出すことは必至である。
多くの不確定要素は瀾滄江に影響をもたらすだけでなく、さらに瀾滄江下流―メコン河にまで影響を及ぼし、また中国のアジア政策にも影響を及ぼす。
その上流部と同じくメコン河水系もまた数百万人の生存を支える複雑かつ豊かな生態システムである。人々はすでにメコン河の水流のリズムに適応し、「母なる河」に頼り、多様で豊かな漁業をうみ、河川に沿って植物、水稲、野菜等を植え、河川航路を利用したり、飲用水としている。しかし現在、彼らが話すところによると「この脆弱な均衡がまさに危機に瀕している。」という。
メコン河の航路で爆破を行い、中国の船が航行できるように、2000年4月中国、ビルマ、ラオス、タイは瀾滄江―メコン河地域経済協力合意の一部に署名した。しかし、下流の国々は中国が瀾滄江上でカスケードダムの開発を計画していることに脅威を感じている。『バンコク・ポスト』の報道によれば、タイはすでに東北タイへの水供給に必要なメコン河の水量維持のための研究計画に着手している。ベトナムは、メコン河の水量の減少によって海水がメコンデルタに注ぎ込み、ベトナムのメコン河デルタの投資プロジェクトに影響をもたらしている、と話している。カンボジアは、メコン河の水位の低下がトンレサップ湖を破壊するのではないかと心配している。この湖は東南アジア地区最大の内陸湖で、増水期にはメコン河からの回流に頼っている。
瀾滄江水力発電所当局は、メコン河の水を「均衡」させることによって―すなわち雨季の水量を減少させ、乾季の流量を増加することによって―ダムは将来的に下流の国々とっての利益となる、としている。しかし、雲南大学アジア国際河川センターの研究報告のように、われわれ中国が国際河川を開発することによって下流には必ず悪影響を及ぼす。例えば、1992から1993年の乾季にかけて漫湾ダムの貯水時、下流ではこれまでにない低水位を記録し、タイ北部のチェンライでの激しい抗議につながった;1995年3月漫湾発電所のダム放水と貯水は本流の水位の大幅な変化につながり、下流4カ国をあわてふためかせ、4月初めの「メコン河持続可能な発展協定」の署名と新メコン河委員会(MRC)の成立、もって中国の瀾滄江における一連の開発に対抗する連合が成立した。
その年、メコン河に生息する300キログラムの重さを持つ大きな魚がしばしば浅瀬に打ち上げられた。それに驚いた現地の人々は、慌てて焼香し、天に祈った。ラオスのある船は、夜の内に川に停泊し、翌日の朝には座礁してしまっていた。なぜなら漫湾ダムが水門を閉めたからである。しかしこうした変化による影響は大したものではない、と見なされた。下流の国々の政府関係者は比較的大規模な洪水がきた時は、小湾と糯扎渡のように巨大な容量を持つダムは、まさに脅威となるだろうと心配した。―なぜならこれらのダムは必ず5年以上の「正常」季節的洪水までは正常のダム水位を維持するが、一旦、大洪水が訪れた際はそれらは必然的に大量の貯水した水を放水するはずで、放水された水と、上流での洪水と、ダムの多年にわたる貯水の総和が未曾有の大災害をもたらす可能性があるからだ。
同時にもっとも深刻な旱魃は、カンボジアとべトナムのメコンデルタにもたらされる可能性が高い。もしメコン河の洪水がこの地区に到達しなければ、あるいは流量、持続時間、範囲が小さくなれば、広範囲にわたる旱魃を引き起こす可能性がある。中国がメコン河の流量を調節することになれば、必然的にカンボジア農業と漁業が依存している洪水が減少し、予測不可能な降水と地下水に頼ることしかできなくなる。しかし地下水は少なくともある程度はメコン河の洪水によって維持されているのだ。そのため洪水と渇水が不均一となるであろう未来に直面し、メコン河下流の国々は恐怖をぬぐい去れないのである。
なかでも彼らが最も懸念しているのは、瀾滄江上のダムを利用して将来、中国によって水流がコントロールされ、これらの国々が、中国の開発計画に従わざるを得なくなることである。しかし中国の巨大な影響力は、まずはこの地区の重要な貿易と投資相手というところにある―メコン河計画署名の年、中国はブルネイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムから202億米ドル以上の貨物を輸入した。メコン河下流の各国は、中国がこの地区においてますます重要な役割を果たしているということを十分認識しており、瀾滄江上のカスケードダムを巡って中国といざこざをおこしたくはないと考えている。
しかし瀾滄江―メコン河、元河―紅河、イラワディ河、怒江―サルウィン河の4つの国際河川は、自然とインドシナ半島五カ国を結びつけ、太平洋とインド洋の結合部として、また歴史的にも大国の争いの地理的な要所として中国の影響力が強く終始、様々な干渉を受けてきた。『中国脅威論』が蔓延してからは、多くの組織が瀾滄江カスケードダム開発はインドシナ半島5カ国にとっての生態的災難だとしてきた。東南アジア諸国のいくつかは中国に協力と誠意の態度が見られないと疑ってきた。
アジア国際河川センター主任の何大明博士は国境をまたがる生態影響に関する研究へのわが国(中国)の投入は極めて少なく、この問題がもし早期解決しなければ、将来中国の地域協力と多国間会談の必要性に直面するだろうと述べる。彼は、瀾滄江―メコン河の自然環の複雑性、生物多様性および広範囲にわたって存在する特別貧困地区は、世界でも類まれであり、流域の保護と発展協調の問題をうまく解決し、国際河川システム全体をみて、水資源の総合的かつ包括的な生態、および経済システムの多目的総合計画、開発、管理を行い、それによって流域の様々な地域、さまざまなレベルの水資源開発の需要を満たし、水に関する問題を解決していかなくてはならない、と考えている。
これはほとんど唯一の中国人学者からの声だ。しかし地球規模の持続可能な開発と地域協力、という趨勢のもと国際的な国境を越える資源競争、利用および国境を越える生態システムの管理と維持は、確かに政治上の重要課題である。これは生態安全の問題だけではなく、また地域における衝突の問題であり、保護地域における安定は当面の急務である。私たちは一部分だけではなく、全体を見渡さなければならない。
国際問題の専門家である張剣荊(ジャン・チェンシン)氏は次のように語った。中国の影響力の増大につれて、同時にまた歴史意識を目覚めさせる必要がある。彼はイギリスの思想家、バークが1793年に書いた言葉の重要な意義を述べる:「野心を警戒する時には、けっして己の野心について忘れてはならない。私はこう言わねばならない。自らの強権と、我々自身の野心を警戒してる、と。私は他人が我々を恐れることを、恐れている。」