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タイの社会運動家ワニダーさんが永眠

メコン河開発メールニュース2007年12月8日

タイの社会運動家のワニダー・タンティウィタヤーピタックさんが12月6日、亡くなりました。彼女の鷹揚な姿、笑顔で闘い続ける姿勢、たくさんの力をもらった気がします。心からの哀悼の気持ちをお送り致します。

以下は、世界銀行が融資したタイのパクムンダムの被害住民の支援を通じて彼女と活動を続けてきたメコン・ウォッチの木口由香からのメッセージです。


貧民会議(Assembly of the Poor)の相談役として、また、パクムンダムの問題を広く公にしたことで知られるタイの著名な社会活動家であるワニダー・タンティウィタヤーピタックさんが、12月6日の午後、癌でお亡くなりになりました。52歳でした。

社会正義を実現するためには、サポーターも被害住民と共に先頭に立って闘うべきだという強い信念から、働いていたNGOを離れ、個人の立場でパクムンダム反対運動を10数年支えてきました。彼女と村人の力で運動が大きくなったために、権力のある人々から様々な迫害を受け、「外国から資金援助を受けて政府転覆を狙っている」、とまで中傷されてきました。

また、1990年初頭の軍事政権時代にダム建設が決まったため、戒厳令下で発せられた治安維持法などで摘発され、多くの刑事事件の被告となるといった迫害も受けてきました。そのために、事情を知らない人々からは誤解される面もあったかと思います。しかし、彼女の訴えは、多くの人を動かしてきました。入院した彼女の見舞いにも葬儀にも、元首相のアナン・パンヤラチュン氏が駆けつけています。彼はNation紙のインタビューに対し、「タイは最も重要な女性の一人を失った」とコメントしています。

私たちメコン・ウォッチのメンバーも微力ながら、この問題を広めるお手伝いをしてきましたが、常に「外国人が背後で操っている」という運動に対する政府機関のプロパガンダに悩まされてきました。彼女は影響住民ではない自分の立場を引いて、「現地住民ではない外の人間が関わってはいけない、というのは政府の都合。バンコクの人間だろうと、外国人だろうと、環境問題や不正に関心のある人がそれを気にする必要はない」と励ましてくれていました。また、いつかインタビューをしたとき「(運動は)続けることが大事。自分が出来ることを無理せず、でも継続することが必要」とも言っていました(フォーラムMekong Vol.5No.1"人with Mekong")。彼女は被害住民だけでなく、様々な社会的な問題に取り組む人の精神的支えでもありました。

一人の女性が、何の肩書きも無く、これだけの人や社会を動かせるんだ!という励ましを私たちに与え続けてくれていた彼女の背負っていた重圧がいかほどものものか、私たちには想像できません。でも今、彼女はそれから解き放たれ、身体的な苦痛からも自由になって幸せでいることと思います。

葬儀に参列されたいがかなわないという方。皆さんがそれぞれのお仕事の中で、彼女がなくしたいと思っていた社会的な不公平を少しでも減らす努力をしてくださることの方が、彼女の遺志にかなうことと思います。どうぞ、それぞれの場所で彼女を見送ってください。ご家族は御香典を元に基金の設立も考えていらっしゃるようです。また連絡があり次第、ご報告させていただきます。

メコン・ウォッチ
木口由香

パクムンダムの闘争で知られる社会活動家ワニダーさん、癌のため52歳で逝去

Bangkok Post紙 2007年12月7日
KULTIDA SAMABUDDHI 記者

献身的な社会活動家である、ワニダー・タンティウィタヤーピタックさんが昨日、3年間の乳がんとの闘いの後に亡くなった。52歳であった。草の根の運動の「鉄の女」と称されながら、開発事業の負の影響を受けている農民たちと共に、その権利や自然資源を守るために働いてきた。ワニダーさんは、事業が廃止されその利権を失うことを恐れる者たちから脅迫、迫害されてきた。だが、彼女は闘いを止めなかった。その正義のための闘いによって彼女は、草の根のネットワークだけでなく、首相から警察・軍の高官、県知事といった官僚や政治家の間でも知られるようになっていた。

一つの論争でありまた長い戦い−ウボンラチャタニ県の10年以上に渡るパクムンダムの反対運動−が、ワニダーさんを傑出した人物として浮かび上がらせた。ワニダーさんとパクムンの住民たちはダム建設を止めることができず、それは1995年(訳注:1994年の誤り)に完成したが、彼らはこのダムの負の影響に光を当て、それに反対し続けた。彼らの闘いはタクシン政権時代の2004年、パクムンダムの水門を年間4ヶ月開放し、メコン河からムン川への魚の産卵を可能とする結果をもたらした。

ダムの水門に関する勝利の2年後、ワニダーさんは乳癌を発症し、それは彼女の肺にも転移した。彼女は昨日(12月6日)の午後1時半、ラマティボディ病院で息を引き取った。

ワニダーさんは独身で、その多くが社会活動家である彼女の兄弟姉妹が後に残された。

バンコクの中国系の家族に1955年に生まれた彼女は、タノーム・ギティカチョーン、パパート・チャルサティアン将軍の軍事独裁政権に反対する1973年10月14日の運動に加わり高校時代から活動を始めている。1976年の10月6日の学生虐殺事件の折、彼女はタマサート大学の政治学部に在籍していたが、(他の多くの活動家同様、虐殺を逃れるために)森に入り、南部でタイ共産党との共闘に加わった。
彼女は政府の恩赦政策によって大学に戻り、1984年に卒業した。ワニダーさんは、保険の外交員やツアーガイドの仕事を数年した後、(環境NGOである)生態系回復財団(FER)に加わり、いくつかのダム反対運動を担った。

1990年代初め、ワニダーさんと仲間の社会活動家は、政府の政策や開発事業から影響を受けた人々の連合体である貧民会議(Assembly of the Poor: AOP)を組織した。AOPは草の根の人々がお互いの 経験を学ぶ場を提供し、この国で一番知られた草の根の運動体となった。

パクムンのリーダーの一人であるソムポーン・ビエンチャンさん(56)はワニダーさんと18年共に働いてきたが、ワニダーさんは彼女が出会った中でもっとも献身的な活動家だと語った。

「このバンコクの女の子が私たちの村にやって来て最初の日に、ダムの反対に立ち上がろうと励ましたとき、私たちは彼女を信じなかった。でも、彼女は持ち前の誠実さと正義のための闘いに対する決意で、短い間に私たちの家族の一部となった」。

「パクムンの住民たちは、ダムの影響にさらされた川と村人を守るための彼女の献身を追悼するため、ムン川の近くに彼女の記念碑を立てることを考えている」とソムポーンさんは語った。

ワニダーさんの葬儀は、Wachirathemsatit寺院において12月12日まで営まれている。

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