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怒江プロジェクト暫定中止の裏にある市民の力

以下の文章は、中国の雑誌『経済』を翻訳したものです。

(経済、2004年5月21日)曹海東、張朋

今月号の表紙を飾る3名の人物は手前から順に、環境保護市民団体「雲南参加型流域」の責任者である干暁剛(ユ・シャオガン) 氏;雲南省政治協商委員、民盟雲南省委員副主委員の戴抗(ダイ・カン)氏そして「雲南参加型流域」の客員研究員、黄光成(ホアン・グアンチェン)氏である。これら数名の人々が共に肩を並べていることは実際、非常に寓意的である。

「雲南省参加型流域研究推進センター」は怒江(サルウィン川上流)上の大型ダム建設に反対の声を発してきた中堅市民団体のうちのひとつで、干暁剛(ユ・シャオガン)氏はその発起人である。戴抗(ダイ・カン)氏は今年2月の雲南省政治協商第九期二次会議の席上、怒江における建設計画について質問を投げかけた人物であり、彼女の発言は「(怒江建設計画に対する)雲南省地方政府内部からの初の異議を唱える声」と評された。実際、戴抗(ダイ・カン)氏の態度は怒江における建設計画に強く反対する環境市民団体の人々に直接、強烈な影響を受けている。

怒江大型ダム建設計画に反対した市民団体のなかでもっとも中心となった勢力は北京の「緑家園」と雲南省の「雲南参加型流域」の二つの環境市民団体で、前者の責任者である汪永晨(ワン・ヨンチェン)氏こそすべての始まりを生み出した要の人物、魂の人物だと言える。

汪永晨氏の「緑家園」と干暁剛氏の「雲南参加型流域」、これらNGO(非政府組織)による呼びかけと圧力が、一度は後戻り出来ないと思われた怒江大型ダム建設計画についての中央指導者による暫定中止指示に繋がったのだ。

市民団体の活動と発言が大きくなり、中央政府の政策にまで影響を与えるという事態は中国では初めてのことである。これはひとつのシンボル、あるいはマイルストーンとしての意義を持つ。

実際、怒江流域において水力発電を行うべきか否か、怒江上に大型ダムを建設すべきか否かについては「基準となる回答」が存在しない問題であり、『経済』 もまた環境保護NGOが生態保護の観点から建設計画に反対していることについて、どの程度「正確」な見方であるのか分からなかった。『経済』が今回の事件に注目するのは、この事件の意義もさることながら、これが中国のNGOの発展過程における一大事件であり、さらに重要なことは、これが中国社会の現代化の進展における重要な飛躍を映し出しているに他ならない。

中国のここ半世紀の「伝統社会」では、「全能の政府」によってすべてが決定され、すべてが実行され、すべての責任が取られるという社会であった。開放的、多元的現代社会ではNGOが活躍し、大きな力を発揮できる社会であるべきであり、この社会において政府とNGOが円滑なコミュニケーションを保ち、交流と建設的な協力がされるべきなのである。これこそ中国が現在まさに力を注いで追及すべき社会である。中国社会の変化は、多くの苦難を乗り越えながら今まさに進行中である。

今回の事件それ自体が及ぼす範囲はごく一部だが、しかしこれは未来予想図が十分明るいことを示している。

怒江の問題では純粋な市民団体が異議を唱え、最終的には政府の政策を変えるに至った。このことは大きな前進であり、中国社会の発展過程においてマイルストーンとしての意義を持つ。

怒江(サルウィン川上流)市民防衛戦争

2004年2月18日午後3時、怒江(サルウィン川上流)の丙中洛(ビンジョンルオ)から貢山(コンシャン) までの道中、10数名の人々は黙々と歩いていた。全員、気持ちはひどく沈んでおり、十数分の間、ひとことの会話も交わされず、山道にはただ怒江の水音だけが轟々と鳴り響いていた。

突然、ひとりの携帯電話が鳴り、みなの視線が一斉に集まった。

彼女の表情はみるみるうちに憂慮から歓喜の色へと変わっていった。電話を切った瞬間、彼女は突然大声で叫んだ。

「中央が、怒江にはダムを建設しないと指示したわ!」

やがて声を徐々に落とすと、「なぜ怒江ひとつを守ることがこんなにも大変なのかしら?」

そう言って、彼女は大声で泣き始めた!

彼女―、汪永晨(ワン・ヨンチェン)、50歳、は市民環境保護団体「緑家園」の責任者である。彼女のもう一つの身分は中央人民ラジオ局の記者である。

ひっそりとした大峡谷は沸き立ち、北京や雲南からやってきた十数名の環境保護ボランティアや専門家らは大声で笑い始め、大峡谷のなか、それまでずっと重苦しく圧し掛かっていた憂慮がたちまち跡形もなく消えうせてしまったので興奮した声が峡谷中に響いた――「私達は勝ったのだ!」

「このような社会的にも非常に注目され、また環境保護の方面に全く違う意見が存在する大型水力発電計画に対しては、慎重に計画がなされ、科学的な政策決定がなされるべきである。」この中央指導者による指示が、半年におよぶ怒江における13のダム計画をめぐる論争に終止符を打ち、暫定中止を決めさせたのだった。中国の民間環境NGO(非政府組織)の力がはじめて大型ダムとの戦いのなかで段階的勝利を勝ち取ったのだ。

ある市民環境保護NGOのスタッフは、「これは中国の環境保護史上でも、中国のNGO(非政府組織)史上においても、共に初めての非常に価値のある出来事だと思う。」と誇らしげに語った。

誰が怒江(サルウィン川上流)に大型ダムを建設しようとするのか

怒江(サルウィン川上流)、瀾滄江(メコン河上流)、金沙江(長江上流)の三大河川は昆明の西、麗江の北の地区において、チベット族自治州、怒江リス族自治州行政区内を平行して流れ、人々から「三江併流区」と呼ばれている。2003年7月3日、「三江併流」はユネスコ(国連教育科学文部組織)により正式に世界自然遺産として批准された。

この時、またさらに別のニュースが飛び込んで来たのだ――怒江に水力発電所が建設される、それも13基もの!

2003年8月12日から14日にかけて国家発展改革委員会は北京で『怒江中下流における水力発電計画報告』審査会を開催した。会議では怒江中下流における13のカスケード(連続)ダム、松塔(ソンタ)、丙中洛(ビンジョンルオ)、馬吉(マチ)、鹿馬登(ルマダン)、福貢(フコン)、碧江(ビジャン)、閃打(シャンダ)、亜碧羅(ヤビルルオ)、瀘水(ルシュイ)、六庫(リウク)、石頭寨(シトウサイ)、賽格(サイガ)、岩桑樹(アンサンシュ)および光坡(グアンポ)あわせて総発電量2132万kW、年間発電量が1029.6億kWhの開発計画方案が可決された。

この『報告』によれば、怒江本流中下流は、河川全長742キロメートル、落差が1578メートル、水力エネルギー資源が非常に豊富であり、我が国の重要な水力発電基地のひとつであるとされている。そして、そのほかの12の大型水力発電基地と比較して、その技術的に可能な開発容量は第六位であり、潜在的な開発可能容量は第二位であるとされている。

もし完成すれば経済効果は明らかで、三峡ダムの規模1820万kWよりもさらに大きく、三峡の年間発電量(846億8000kWh)の1.215倍、工事の静態投資総額は896億4600元となる。

2004年4月12日、雲南、昆明。

「114」電話で調査台帳上に登録されている中国華電グループ雲南怒江水力発電開発有限会社の具体的な住所を調べようとしても、見つけるのは困難だろう。なぜならそもそもこの会社の商標は存在しないからだ。結局、ある筋の者が記者にこの会社が「雲南電力グループ水力発電建設有限会社」の3階と4階事務所にあるということを教えてくれた。

華電グループ雲南怒江開発有限会社副社長の張建新(ジャン・チェンシン)氏は雑誌『経済』の最初の一文にこうあるのを目にした:インターネットなどメディア上に流れるニュースの多くは不正確である。現在、怒江のすべての開発がマクロ政策面からも国家政策の面からも法的手続きにしたがって施工準備がされている。

張(ジャン)氏は『経済』に語った。「1970−80年代には(怒江開発は)すでに予備工事が始められていた。」彼の理解によれば1980年代の全国エネルギー調査の際、1989年には既に怒江流域の水力発電開発は当時の全国調査の範囲となっており、ふさわしい数の計画がされた、とのことである。

『経済』の記者が入手したエネルギー部水力発電開発局1991年編纂の『中国水力資源集』には「雲南省大型中型水力発電所位置図」において怒江流域で6つの発電所、総発電容量1090万kWの設計がなされている。

1999年、国家発展改革委員会の「我国のエネルギーの現状、関連する人民代表大会代表のよびかけに基づき、手順に適う方法で怒江開発を推進」において一定の資金が捻出され、水利水電計画総院の牽引のもと入札方式によって二つの建設主体が確定された――北京勘測設計研究院と華東勘測設計研究院である。この二つの設計院によって怒江中下流における雲南の国境内の水力発電計画は進められた。

「最終的にできあがった計画がまさに“二基十三級 ”だった!」。張(ジャン)氏は、怒江流域の水力初電計画は「別に今になってはじめて出てきた話ではない」と言う。

張(ジャン)氏によれば華電グループが怒江流域水力発電開発にかかわったのは2003年の春節以後だと言う。当時の華電グループ社長、賀恭(ヘ・ゴン)氏と雲南省の主要幹部が意見交換を行い、すべての水力発電開発の形式--『水力と火力を共に実施し、水力開発を優先』と着眼、特に怒江上流にはすでに水力発電所があるという前提の下で怒江水力発電所開発が決定した。

「当時、雲南のベテラン幹部の多くは皆、怒江水力発電開発に賛成したのに、雲南省はこんなにも長いあいだ計画を進めてこなかった」とまで賀(ヘ)氏は言った。

その後2003年6月14日、雲南華電怒江開発有限会社が設立され、7月10日に正式に登録された。「私だって雲南華電怒江開発有限会社が出来た後にはじめて呼ばれたのだ。」と張(ジャン)氏は語った。

本来は計画に沿って、2003年中には六庫(リウク)発電所の工事を開始し、同時に馬吉(マチ)、碧江(ビジャン)、瀘水(ルシュイ)、賽格(サイガ)、岩桑樹(アンサンシュ)発電所の設計事業が始まった。しかしその後の一連の「世論攻勢」――専門家の弁論、市民の参加、市民からの真相を知りたいとの要求など、想像もしていなかったことが起きて、2004年には中央指導者による指示が出た。

怒江州の外宣事務科長、楊宏斌(ヤン・ホンビン)氏は『経済』に対して、「専門家は専門家の言い方がある、メディアにはメディアの言い方がある、今は怒江水力発電開発と聞いただけで頭が痛くなる、記者がひっきりなしにやって来るからな!」と語る。

しかし張(ジャン)氏は比較的、楽観視しているようである。「現在はまだ正式な開業前だ。六庫(リウク)の環境影響評価(EIA)が出たら、開始だ!」

怒江(サルウィン川上流)防衛戦争第一幕

「緑家園」の責任者、汪(ワン)氏は鮮明に記憶していた。彼女は2003年8月16日にはすでに雲南怒江州が13基のダムを作るつもりであることを知っていた。

当時、汪氏は南水北調の丹江口の取材中で途中、環境保護局のある友人からの電話を受け、その友人が彼女に怒江(サルウィン川上流)に13ものダムが出来るということを知らせたのだった。

「以前、私はダムにはそれほど関心を持っていませんでした。2001年にタイに行った時、地元の反ダム村に出会い、ここで初めて私は反ダムが環境保護の内容を持つということを感じはじめたのです。しかし正直言って依然、中国にはあまり関係の無いことだと思っていました。ところが怒江のことを聞き、私の心は震えました。」と汪氏は語る。

環境保護局の友人が彼女に怒江は中国最後の処女河川だと教えてくれた時、汪氏はこの時やっと、生涯をダム反対に捧げることを始めたのだった。

「友人は言いました。彼は国家発展改革委員会の中で孤軍奮闘している。“環境保護局だけは絶対に守り抜かねばならない”と。」彼女は怒江について熟知している学者を必死で探し始めた。彼は反撃しなければ!

汪氏はこの環境保護局の友人に「援軍」を送る必要があると考えた。慌しい丹江口の船の上で、いくつもの名前が汪氏の脳裏を駆け巡った。突然、「何大明(ヘ・ダミン)」の名前がひらめいた。

何大明、雲南大学教授、雲南大学アジア国際河川センター主任は著名な河川専門家である。汪氏は10年前に何氏と知り合ったが、その後ずっと連絡は途絶えていた。2003年7月に汪氏が雲南へ取材に訪れた際、雲南の友人と出くわしてダム建設に話が及び、何氏が怒江に関する大量の詳細な資料を保有していることを知った。

少しのためらいもなく、何氏の電話は汪氏の手によって環境局の友人の手元に送られた。

こうして2003年9月3日、国家環境保護局が北京市で開催した「怒江流域水力初電開発活動生態環境保護問題専門家座談会」の席上、怒江ダム建設に対する激しい抗議が繰り広げられたのだった。何大明氏のこの発言が後に国家環境保護総局および北京の専門家らに怒江にたいする「異議」の基礎となった。何氏は真っ先に怒江開発に対して反対を唱え、「子孫のために処女河川を残そう」と専門家らに呼びかけ、また怒江ダム建設に反対する地元雲南唯一の専門家として立ち上がったのである。

こうして、全国的な怒江大型ダム論争が始まった。

2004年3月下旬、雑誌『経済』は雲南大学アジア国際河川センターに連絡を取り、何大明氏を通じて当時の「北京会議」の状況を知りたいと希望した。センターの人はおそらく何氏は今、記者の取材を受けられないだろうと言う。「あまりに多くのメディアが取材に来るのです。」記者は別のチャンネルを使って、雲南の関係者から独占で何氏の話を聞いた。

2003年9月北京のこの会議には汪氏も列席し「当時、私は緑家園記者サロンに来ていた十数のメディア記者の前に立ちました。」そこでこの会議が招いた専門家の大多数がダム建設に反対し、状況は「逆転」の様相を呈してきた。

環境保護NGOスタッフ、環境保護官僚は口を揃えて、この会議こそ「怒江防衛戦争の第一幕だった」と言う。

雲南現地にも、同様の環境保護NGOが存在していた――

「雲南省参加型流域」は怒江流域の水力発電開発に熱い注目を注いでおり、彼らは雲南政府内部からの初の異議を唱える声の誕生を促した。

2004年4月14日、「雲南参加型流域」の責任者、干暁剛(ユ・シャオガン)氏は昆明で雑誌『経済』の取材を受けて、2003年初め彼らはいくつかのチャンネルを通じ怒江に水力発電所が建設されようとしているということを知った。しかし当時はただ風の噂に過ぎず、確信がもてなかった、と語った。次第にニュースが明らかになるにつれ、干氏はオクスファム香港とアジア開発銀行(ADB)の会議の席上、繰り返し怒江の生態は保護されるべきであると訴えた。

「2003年7月に「三江併流」がユネスコに正式に世界自然遺産として批准され、私はやっと安心したのです。ところが全く思ってもみなかったことに、事態が急転し、8月には『怒江中下流水力発電計画報告』審査会が行われることになったのです。非常に驚きました。どうしてこんなことが出来るのだ?」と。これまで干氏は去年起きたひとつひとつの出来事に力を尽くしてきたと感じている。

見る間に怒江水力発電開発が水面に浮上し、緑家園、参加型流域、自然之友など環境保護NGOの緊迫の度合いは日増しに増し、彼らはセミナーや講演(例えば記者サロン、水の声講演など)を通じて積極的に怒江大型ダムに関する宣伝を始めた。汪永晨(ワン・ヨンチェン)氏と沈孝輝(シェン・シャオフイ)氏(中国人と生物圏国家委員会委員、多数の環境保護NGOメンバー)も絶えず環境保護局の官僚らに代わってはアピールを行い、「気合を入れ」、彼らが持ちこたえてくれるよう願った。

その後、全国の多くのメディアが怒江問題について取り上げ始め、「その多くは緑家園の記者サロンの記者達だった。」という。華電集団雲南怒江水力発電開発有限公司副社長、張建新(ジャン・チェンシン)氏は、世論の影響を受け、怒江13のカスケード水力発電所は長引きそうだ」「またこれによって六庫(リウク)発電所にまで影響が及ぶ」と語った。

市民の発言権を勝ち取る

2003年10月25日、緑家園は非常に影響力のある行動に出た。中国環境文化促進会第二期会員代表大会上で、62名の科学、文化芸術、新聞、市民環境保護界らの署名を集めて、怒江大型ダムに反対したのである。

「当時、副会長の郁鈞剣(ユ・ジュンチェン)氏は最後の処女河川を残してくれと訴えました。彼は現在、世界でも原始の生態を残す河川はほとんど無くなってしまった。中国でもヤルザンプと怒江の二本を残すのみである。しかし最近、怒江流域では水力発電開発が進行中であり、焦眉の急を争う出来事なのです、と語ったのです。」

汪(ワン)氏はこの話を聞いて機転を利かせ、こうした著名人の影響力を利用して怒江保護を訴えることが出来ると考えた。

そこで彼女は「著名人」の合同署名アピールを頼みに行った:最後の処女河川怒江を残そう―。

2004年4月9日の晩、汪氏の自宅で、『経済』の雑誌記者はこの連名アピールの手紙を見た。「第一に抵抗運動を張る、第二に…」この普通紙の上に鉛筆でかかれた署名が後にメディア放送を経て大きな世論を巻き起こすに至った。汪氏は語る、これは多くの人々に面倒を引き起こした。「別の人がこぞって我々署名をした人間に反駁してきました。“あなたは現地の庶民の生活がどれだけ苦しいものか、どれだけ大変なものか、分かっているのか?”と。」

華電グループ雲南怒江水力発電開発有限会社副社長、張建新(ジャン・チェンシン)氏はこの署名活動にすぐに反感を覚えた。「彼らに怒江についてどれだけ分かっているか尋てみるがいい?どうして状況を大して分かっていないのにものを言うのか?」。怒江州委員宣伝部部長、段斌(ドァン・ビンDuan Bin)氏が言うにはこれらの専門家は現実からかけ離れており、想像に頼ってものを話しているに過ぎず、「全く一面的な理解から環境保護を捉えている」。

かつて徒歩で怒江州を旅行したことのある中国社会科学院金融所のある博士は後に『経済』に対してこのような態度を示した:「抽象的に話せば私だって環境保護を擁護する。しかし私は怒江に到着してすぐさま知った。現地の庶民の生活がいかに原始的で、閉塞していて、貧困であるかを。怒江で水力発電開発を行うことはおそらく彼らが現代社会に通じる唯一の道なのだ、と語った。環境保護だってこう尋ねることが出来る:一体誰がこのような「環境」を必要としているのか?衣食足りている北京の人間か、それとも現地の人々か?」

おそらく現地の人々は同様な考えを一層強く感じているであろう。雲南省環境保護局がそれぞれ2003年9月29日と10月10日に開催した二度の研究討論会上では「生態河川を保護する」問題に関し、雲南の専門家は「開発」一辺倒であった。

2003年10月1日、「雲南参加型流域」は怒江流域の現地調査を開始した。「その時の調査は真実の状況をつかむためでした!」干(ユ)氏は語った。「私達はNGOの名にかけて現地政府を説得したのです。」

「我々は漫湾(マンワン)発電所の建設後に現地の人々がもたらされた苦難を現地政府に伝え、彼らに『世界ダム委員会市民ガイド』を送りました。私達は道中、各県の幹部らとの交流を行い、彼らがダム建設後の移転住民や土石流、生態の方面での損害について理解してくれるよう望んだのです!」

「私達が非常に驚いたのは、現地では多くの政府職員がなんと彼らはかつてこれらのことを考えたことがなかったと話し、彼らが我々の考えに驚いたことです!」と干氏は大変感慨深げに語った。

またまさにこの時、国家環境保護局が怒江の視察に訪れており、雲南省政府は関連幹部と席を共にしていた。「私達はすでに環境保護総局の職員たちにも周知しており、彼らに対して環境保護市民団体の考えを伝えたいと考えていた。しかし彼が昆明に到着した際、我々は仕方なく途中で待ちながら、彼らの車が目の前を通過してゆくのを目の当たりにすることしか出来なかった。」干氏は振り返る。

2003年11月、「第三期米中環境シンポジウム」が北京で開催され、この盛大な会合の参加者はすべて市民環境組織―緑家園、自然の友、緑島、地球村などーだった。このシンポジウムに参加した人によれば当時、全国で比較的活発に活動していたNGOはすべて参加し、およそ200人前後だったという。そして最後の議題は緑家園などによって、いかにして中国最後の生態河川―怒江を保護するか、という方向に向かっていった。

「考えるべき方法はすべて考えた。自然の友にはユネスコの北京事務所に電話を掛けてもらって、私達はその後順番にそこへ電話をして、彼らを“悩まそうと”したの。怒江に対する注意をひくために。」汪永晨(ワン・ヨンチェン)氏は言った。

この会議は環境保護NGO内部でも激しい議論があったようだ。もしダムや発電所を建設しなければ、現地の貧しい住民はどうして貧困を抜け出し、豊かになることができるのか?それに対して多くのNGOの人々から激しい反駁があった:発電所が建設された後、現地住民が使う電力は都市よりさらに高騰していて、移転住民は土地も失っており、どうして生産ができるのだ?

ともあれ、この会議によって環境保護NGOのダム「反対」の声が伝え広まったのだ。

同時に、中国の環境保護NGOは国際社会でも支持を勝ち取った。

2003年11月末、世界ダム被害住民会議がタイで開催され、中国市民環境保護団体から緑家園、自然の友、緑島、雲南参加型流域などが参加した。

この会議では、中国の市民環境NGOが怒江保護をアピールしようと駆け回った。最終的に60余りの国のNGOの署名がこの会議の名をもって合同で怒江保護を訴え、この合同署名は最後にユネスコに渡され、ユネスコの「怒江に注目する」という回答を得た。

その後、タイの80余りの民間NGOもまた、怒江の問題に対して合同でレターを書き、中国の駐タイ大使館に提出した。何故なら怒江下流はタイを流れているからだ。

2004年3月26日から29日、環境NGO北京地球村、自然の友、緑家園ボランティアの4名の代表は韓国の済州島にてUNEP第八期部長環境論壇が主催した第五回国連公民社論壇に参加した。

会議の席上、緑家園は代表して『心の怒江』と題する講演を行った。会議期間中、各国代表は次々と署名を行い、最後の生態河川である怒江を保護することを支持した。UNEPの執行主任、国連副書記長のTuopufeier(訳者注:英語名不明)は怒江の写真を見て、筆をとり書き付けた。「なんと美しい河川だ。水は常に全世界の人々にとって重要なものだ。」国連アジア太平洋地区執行主任のSuolata(訳者注:英語名不明)も「心の怒江」写真展の初日に手紙に署名をし、「心の怒江」HPの写真となった(?)

2004年4月9日の晩、汪(ワン)氏は自宅で、記者がこれらの手紙の上の署名を見て、「当時、私達はさらに多くの怒江写真展での写真を撮り、多くの国の代表がこれらの写真を非常に気に入った。」

9日間の怒江行

2004年2月16日から24日にかけて、北京と雲南から来た20名ほどのジャーナリスト、環境保護ボランティアや専門家らが共に怒江(サルウィン川上流)に足を踏み入れ9日間のインタビューと現地調査を行った。今回の現地調査の理由は、一つにはパトリックマッカリー著作の『巨大ダムの経済学』(訳者注:邦題『沈黙の川』)の影響を受けたこと、二つには怒江大型ダム建設を開始した人々を非難する立場にあるものの責任として――環境保護を唱える人々でさえ怒江には行ったことがなかったからだ。

今回の現地調査のルートは雲南参加型流域が責任を持ち、基本的に13の水力発電所計画を参考にしてルートをたどった。ところが怒江流域に足を踏み入れるにも係わらず、彼らの身分は「旅行者」だった。汪永晨(ワン・ヨンチェン)、沈孝輝(シェン・シャオフイ)などその他の環境保護NGOのメンバーは皆、これは仕方のない方法だ、「もしこうしなければ、我々の報道やプログラムは途中で失敗してしまう可能性が非常に高い。」と言う。

「私達は一つの巨大な利益集団と戦っている。もし私達が記者の身分で出て行けば、彼らはメディアを探し出し、その番組報道の放送や掲載が邪魔されるだろう。これは以前、我々が怒江の追跡報道を行った時、我々がしばしばぶち当たってきたことなのだ。」

9日間のインタビュー調査の間、彼らは山を越え、川をわたり、多くの村を訪問した。多くの真実の状況を見るに至り、その多くがメディアを通じて報道された。

多くの視聴者や読者から、怒江についての問い合わせが相継いだ。「このことは私達を本当に感動させました!」

雲南参加型流域の干音(ユ・イン)は、時には全員9時にはまだ車中にいながら、10時にはもう直接テレビを通じて放送されるなど、「本当に刺激的でした!」と語る。

怒江の生物多様性、文化の多様性は彼らに強い印象を与えた。豊富な自然資源なしには怒江22の民族多様性の生活方式は生存の根底から失われてしまう。豊富な伝統文化も失われるし、怒江両岸の自然生態の多様性もまた残すのが難しいと思われた。

2004年4月16日午後、シトシトと小雨の降る中、泥でぬかるんだ小道を歩き、10分以上よじ登って、『経済』の雑誌記者は怒族の集まるところに足を踏み入れた――― 怒江福貢県匹河郷瓦娃村、匹河郷党委書記の彭虎生(パン・フシェン)氏は言った。ここは13級水力発電所のうちひとつの発電所建設予定地だ。

村では丁度、会議が開かれており、みな村の入り口で、喧々諤々の討論を行っていた。--多くの言葉が理解出来なかった。

「我々は皆、会議の際に酒を飲むのが好きだ。君はそれでも構わないかね!」38歳の普大益(プ・ダイ)氏が言った。彼は瓦娃村の医者だった。

それほど遠くない場所を指し、普大益氏は言った。「ここから穴が打ち始められた(注:設計院の勘測)あの日、我々はビクビクと心配でたまりませんでした!」

国家電力会社北京勘測設計研究院と華東勘測設計研究員が完成させた怒江中下流水力発電計画報告の中で挙げられた13の計画では、13の水力発電所が建設されれば、ダムによる住民移転人口は48979人となり、三峡発電所(約110人余り)の4.89%にあたる、とされている。

普氏と彼の親戚が心配しているのは、こうした移転住民である。

窓の外の細い雨を見ながら、普氏の心は重く沈んでいた。「私達は最も狭い世界(怒族村)で、誰も他人を傷つけないし、誰も他人を侵さず、ただ淡々と暮らしてきた。お腹いっぱい食べ、温かい服もあり、我々はいつ雨が降って、いつ晴れるかをはっきり言うことができる。私達は自分の生活、風俗、祭りを持っているのに、移転をしたらどうすればいいのか?」

村の主任の桑益普(サン・イプ)氏ははっきりと言った。「私は引っ越したくないけれども、私達は言った通りにはしない。」

「私は生まれた時からここにいて、私でさえここがいつからあったのかを知らない。ここでは確かに貧しさもあるが、豊かさもある。違いますか?」普氏の眼光は人を焼き尽くすほどだ。「でも国がもし絶対に我々が移転しなければならない、と決めたら、我々も政策にそむくことは出来ない。」

 

2004年2月18日、これはおそらく怒江のために動いたすべの環境保護NGOの人々が記憶している日である。この日、中央政府が怒江に対して指示を下したことで彼らの憂慮は消え、皆、安心して記者の身分を明かし、堂々とインタビューを始めた。

またこの時から彼らは北京に戻った後の撮影展について計画し始めた。「さらに多くの人々に怒江を理解してもらわなくては!」

「あの時は皆で非常に多くの写真を撮りました。もともと我々は道中急ぐから撮影は止めておこう、と言っていたのに、周囲の景色や人々の生活にすっかり魅了され、止めることが出来ませんでした。」

2月25日から3月21日にかけてこれらの環境保護グループは昼夜を問わず北京での怒江撮影展の資金集めを始めた。

資金がなければ、まずは自分が犠牲になろうと、汪永晨(ワン・ヨンチェン)は家に貯めてあったお金をすべて使いきった。時間がなければ必死に時間を切り詰めた。

3月14日は世界河川の日、「心の怒江」の中国語と英語のホームページはすっかり出来上がった。3月21日「心の怒江」撮影展は終に正式に開幕した。ただ会場だけはなかなか決まらず、何度も変更した挙句にやっとのことで決定した。会場は北京駅近くの郵便局に決定した。

「こんなに大きな展覧は林業局も多くの時間を割かなくてはならないし、こんなに早くうまくいくとは思いもしなかった!」国家林業局の高級エンジニア、沈孝輝(シェン・シャオフイ)は言った。

3月31日、1人の老人が午前中、これらの撮影点を見に来た。午後には彼の年老いた友人を連れて再び訪れ、環境保護ボランティアの組織に怒江へ連れて行って欲しい、と頼んだ。中国探検協会の王方辰(ワン・ファンチェン)氏は撮影展の後、伝言を残した。「今後のために、独特の川、独特の民族、独特の資源、彼ら独特の風貌を残してくれ。これらを見てやっと原生環境とは何かを知ったよ!」

3月下中、撮影展で『経済』雑誌記者は沈孝輝に偶然出会った。彼は、レンズを使って車椅子に座る白髪のしょんぼりした老人を記録していた。彼女はそれほど一枚一枚の写真を丁寧に眺めていたのだ。

北京への「上書」と雲南での質問

雲南怒江流域へのフィールドワークの機関、沈孝輝(シェン・シャオフイ)は自分の提案について下準備を行っていた。彼は全国の2つの会議上で自分の議案を提出する方法を探っていたのだ。北京へ帰る途中、環境保護グループとの幾度とない討論を経て、この2つの提案が出てきたのだった。

2つの会の期間、沈孝輝は議案を全国政治協商委員と全人大代表に提出することに成功した。このチャンネルは、全国政治協商会議委員の梁従誡(リャン・コンジエ)氏によってもたらされた。梁氏は沈氏に教えた。「私の提案は報告されなかったのに、君の提案は全て上層部へ報告されていったよ!」自分の狭い部屋の暗い光の下でこの話を聞いて、本当に感動した、と沈孝輝は語る。

これら2つの議案は非常に重いものだった。一つは『天然大河怒江を保護し、水力発電連続開発を中止せよ』、もう一つは『河川流域計画の分類について、生態保護と経済開発を協調させるための提案』だ。

『天然大河怒江を保護し、水力発電連続開発を中止せよ』の提案の中で、沈氏は『中華人民共和国環境影響評価法』と『中華人民共和国水法』を必ず執行し、『怒江中下流水力発電計画』を否決するよう提案した。

雲南省では同様の力が生まれ始めている。

2004年2月13日、雲南省政治協商会議第九期二回会議の上で、省政府政府協商会議委員で民盟雲南省委副主委の戴抗(ダイ・カン)氏は民盟雲南省委の民主党派、天党派が共に組織した会議場で発言し、怒江流域開発に対して質問を提出、水力発電開発はすべての流域の持続可能な発展と共に計画され、全体的な計画なしに水力発電開発が進められれば、将来、怒江流域の生態と社会に巨大な影響をもたらす、とした。

「これは雲南省地方政府内部から始めて出てきた異議の声だ!」ある人は評価して言った。

この会議に参加した人は、当時、省委の関係指導者は大変動揺し、ある省委の指導者はすぐさま:「持続可能な開発の重点は開発にあり、生存と生態では、重点は生存にあるのだ!」と発言した。この発言は会議の参加者の多くにとって受け入れ難いものだった。

またこの会議の一週間後、雲南省指導者はすぐに北京入りをし、中央の「科学発展観」について学んだ。

この会議の発言は2月14日の『雲南政協報』の中のあまり影響力のない『経済週刊』に掲載された。すべての書面での発言は2004年3月31日になって『雲南政協報』に出た。

2004年4月13日、戴抗氏は『経済』雑誌記者のインタビューを受けて、この提案は環境保護組織、雲南参加型流域の影響のもと作られ、「専門家は多くの人から一面的な発言だと思われたが、しかし、無党派の人日とは発言でき、政府に質問することができて、これもまた政府の関心を引いた!」と言った。

雲南参加型流域内部には多くの民盟の人日とがいて、水の声論壇には民盟もしばしば参加している。雲南参加型流域の黄光成(フアン・クアンチェン)氏が提案の中で非常に大きな役割を果たした。「黄氏は怒江を10年あまりも研究している。彼は我々の怒江でのフィールドワークの中で軍師となっていたのよ。」戴抗は言う。

 今になって戴抗は、発言が終わった後、が興奮して彼女に対して、彼ら市民団体の声がついに民盟を通じて出てきた、と言った。戴抗は、「彼ら環境保護NGOは非常に執着が強く、干暁剛(ユ・シャオガン)と黄光成(フアン・クアンチェン)氏は怒江を見れば、すぐにダムについて話し出すのよ!」と言った。

勝利の背後に尾を引く影

2004年2月の中央指導部の返答文書は、すべての怒江環境保護者を歓喜させた。しかしこの勝利は非常に長い影を落としている――貧困、現地政府がしばしば提起するこの話題は皆の胸に突き刺さる。

2004年4月15日、怒江州委宣伝部部長の段斌(ドアン・ビン)はこう怒江の貧困を形容した:怒江は100%貧困だ。骨の髄まで貧困だ。

2003年9月29日、怒江州委書記の解毅(ジエ・イ)は怒江開発と環境保護の専門家の討論会上、『中共怒江州委、州人民政府の怒江開発と環境保護に関する意見』報告を行った。この報告の中で、解氏は数字を使って怒江州の貧困状況を描写した。怒江州49.2万の人口のうち2002年末でまだ22万人が貧困線以下に属している。農民人口の半分以上を占め、一人当たり年純収入が560間以下の極端な貧困人口は7万人いて、一人当たり年間収入が625元以下の絶対貧困人口は13万人いるらしい。

華電グループ雲南怒江水力発電開発有限会社副社長の張建新(ジャン・チェンシン)氏は『経済』雑誌に対して激しい口調で話した。貧困と美のどちらを選ぶのか?我々はどうやって全国の人民が小康状態にたどり着くか?私達は無駄に尻で環境保護をすることは出来ない。彼がまだ通じないのは、自分で30年余り水力発電に携わり、多くの水力発電プロジェクトを経て、どうして急に怒江で「環境保護をしない人」になれるのか?

怒江州外宣伝事務科長の楊宏斌(ヤン・ホンビン)氏は彼らの難しさを訴えた。宣伝部は毎年、たった8万元の経費で働いている。「怒江州は毎年一億円ちょっとの財政収入の概念は何か?北京はおろか昆明の町役場1年分の収入にも満たない!それに今年、怒江州は州立50周年なのだ!」

解氏の『意見』の中で、2002年の怒江州の地方財政収入は1億500元で、財政自給率は14.7%である。2003年の上半期、全州の固定資産投資は同比、13.1%、経済の増加幅はたったの5.9%だった。1953年から1995年にかけて、国家の怒江州に対する投入は累計で9億7億元、雲南総投入の1%にも満たない、と述べている。

怒江州宣伝部部長、段斌(ドアン・ビン)氏のロジックでは、水力発電所を開発しさえすれば、現地住民は移転をし、貧困を抜け出すことが出来る。また金を得て、色々なこと、例えば旅行も出来るようになる。第三次産業の発展にも繋がる。谷底が水没すれば、以前は山の中腹だった景色が新たな観光の景観を作り出す。『怒江報』2003年10月22日の報道によれば、2003年1〜7月、怒江州全集が受け入れた国内旅客はのべ26万2300人、旅行収入は9825万元だ。

段氏はまた、13級水力発電所は環境保護に有利になると考えている。理由は、水力発電は住民を移転することで、退耕還林が可能となる。また、移転をした住民の補償は、どのように移転したとしても、現在のところ大体の話し方があるのも

怒江州内には怒江、瀾滄江、独龍江の三大本流および183本の1級支流が流れている。水資源総量は955億9100立方メートルに達し、開発可能な総容量は全省で開発が可能な量の19.9%にのぼる。

地方政府は少しも判断を疑っていない:水力発電開発は貧困を抜け出し、水力発電開発は怒江の最も良い未来だ、『全州各民族すべての心は開発にある!』

環境保護NGOは1年近くあちこちを走り回り、様々な活動を立ち上げ、怒江州を「難しい立場」にしてきた。怒江州外宣事務の科長、楊孝斌(ヤン・シャオビン)氏は言った。現在、彼らは受動的で、上っ面だけで「口はあまり出さず、多くを実行する。」を求める。「多くを実行する」の解釈は積極的に中央に怒江の実際の状況を伝えて、支持を勝ち取ってゆくことだ。段氏も言う。現在の状況のもとでは、上が行えと言ったことが、彼らの行うことなのだ。

雲南参加型流域の責任者、干暁剛(ユ・シャオガン)氏は、現地政府は環境保護団体は水力発電書建設反対とは言うけれども、現地の住民が貧困から抜け出す方策を考えなければならない、という。「しかし、あんたたち政府は税金をとっておきながら、ふつうの住民の変わりに仕事を行うべきだろうに、どうして一つの環境保護NGOに解決などできるか?」干氏はこうした言い方にたいして非常に怒っていた。

とは言え干氏らは積極的に怒江にプロジェクトを求め、怒江の現地の人々を助けている。緑家園の責任者、汪永晨(ワン・ヨンチェン)は『経済』に対して、彼らは積極的に資金を集め、「すくなくとも現地の小学校に図書室をあげたい。」こうして、汪氏と彼女の仲間はいたる所で写真を売り、講演を行い、国外基金に頼み、「皆、そのうち乞食になるわ!」

登場したての新生社会の力

新生社会の力として、怒江保護運動において、中国の民間環境保護NGOは人をして敬服させられる意志を示し、無視できない生命力を発揮した。将来、彼らが中国社会の中でますます影響力を持つであろうと信じるだけの理由はある。

しかし現在のところ中国のNGO環境保護グループはまだ細い道をフラフラと走っており、進みはのろく、声もかすかで小さい。 

去年、雲南省が開催した何回かの環境保全専門家会議において昆明雲南参加型流域は市民環境保護団体の参加を求めたが、それに対する回答は、まず彼らに対して怒江の水力発電事業に賛成なのか、反対なのか立場を明確にする必要がある、というものだった。もし反対ならば、列席のチャンスさえもらえない。干氏は感慨深げに、政府と渡り合うのはとても大変だとぼやく。

沈氏は、中国の環境保護組織は1990年代末から21世紀初期のこの段階を経て、すでに質的にも上がり、数も増えた、政府は環境保護NGOに対してしかるべき地位を与えるべきだ、と考えている。「政府はNGOとコミュニケーションをとり、協力して政府は市民の力を知るべきだ!」と言う。

「環境保護NGOがまだそれほど活発でなかった頃、政府はいつも市民の環境意識は何故こうも低いのか、と言っていた;しかし、NGOが本当に育ってくると、政府と対立するのを恐れて、どうしてもコントロールをしようとする。実際のところ、こうした心配は余計なものだ。政府はどうしたら市民の環境保護の力を開発できるかをマスターすべきで、それによって環境保護発展の力とするべきで、無駄な心配は必要ない!」

NGOを感動させるのは、彼らが徐々に孤独ではなくなってくることだ。市民のますます多くが環境保護の重要性に気付き、「これは十数年前に比べたら、ずっと良くなった!」

市民の声援、支持は常に環境保護NGOの最大の励みだ。これが沈氏の心に常に感激を与え、沈氏は世界反ダム会議から戻ってきた後に、北京図書館でダムに関する報告を行い、当時50歳余りの老同士が会議に参加した後、すぐに中央指導者に怒江の状況を反映した手紙を書いた。

 怒江13級の水力発電所のある専門家が沈氏に対して言った。「私は学者だ。肝心な時にまだ反対票を投じることができる。君に何か必要があれば、私は君に砲弾をあげるよ!」沈氏の『怒江十問』、はまたこうした支持を背景に生み出されたものだ。

怒江における大型ダムは一次的に停滞状態にある、と言える。しかし民間環境保護NGOが言うには、これは所詮、段階的な勝利であり、彼らが立ち向かっているのは彼らよりもずっと強大な数多くの利益集団で、怒江は依然として変数に満ちている。

2004年初め、怒江州州委第五期六回前回で怒江開発の戦略目標が提出された:2つの国家級基地(水力発電基地、有色金属基地)、ひとつの世界ブランド(三江併流旅行区)。

 華電グループの張建新(ジャン・チェンシン)氏もまた、六庫発電所の環境評価報告はおそらく意見つきの返答がされると認識している。

「何はともあれ、中国環境保護発展史上やはり初めての出来事です。以前の中国の環境保護NGOは皆‘教育’の段階に留まっていた。バード・ウォッチング、植林、ゴミ拾い、こうした“おきまりの三つ”、それが今では怒江の問題については政府の決定に影響を与えた!これは一種の飛躍だ!」ある評論家はこう見る。

 2004年4月9日、夜の色が濃くなり、汪永晨(ワン・ヨンチェン)氏は自宅にいた。怒江の未来については、汪氏は依然として自らの信念を堅持しており、彼女の表情は一層の悲壮感を漂わしていた。

「怒江上の最終的13級の水力発電所が建設されたとしても、私達はやはり市民に警告をし、孫子の代に、かつての怒江はこうであったと教えていきます!」

(翻訳:メコン・ウォッチ/大澤香織)

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