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シリントンダム

2002年4月作成

シリントンダム

 ラムドムノイダム(現シリントンダム)は、タイ、ウボンラチャタニ県に位置するメコン川の支流であるムン川の支流、ラムドムノイ(ドムノイ川)に建設された多目的ダムである。ダムは高さ42m、全長940m、幅7.5m、19億6650万立方メートルの貯水が可能、貯水池の面積は約292平方km、12000キロワットの出力の発電機を3台備えている。

タイ発電公社(EGAT)のホームページによると(注1)、1961年に日本の電源開発によって実現可能性調査が、1966年にフランスのSOGREAH社が灌漑の技術指導援助を、そして、1967年に電源開発が詳細設計を行っている。同ダムの建設がはじまったのは1968年、完成は1971年である。ダムの水は現在も発電と灌漑に利用されている。灌漑面積は152,000ライ(注2)で、対象地域では二期作や乾期の野菜栽培などが広く行われている。反面、貯水池の水没面積が広かったため、多くの住民が住居の移転や農地の喪失を強いられた。

同ダムの建設には「ラム・ドム・ノイ水力発電事業計画」としてタイ政府に2回円借款が供与されている(注3)。事業主体は国家エネルギ‐庁(注4)であった。また、「ラム・ドム・ノイ配電網建設事業」で送電線整備のため更に822百万円が供与されている。(事業主体は地方配電公社)

当時の政治状況

 1963年、サリット首相の死去にともない、タノーム・キティカチョーン陸軍大将がその体制を引き継ぎ、その後、一般に「タノーム=プラパート体制」と呼ばれる独裁体制が約10年間続く。前首相の地方開発政策を引き継いだタノーム首相であったが、政権の指向は共産主義への対抗という目的に特化していく(注5)。この時期のタイの政策には東南アジア諸国の共産化を恐れるアメリカの意向、得にベトナム戦争が大きく影響していた。当時の政権は、東北タイをベトナム・ラオスへの「北爆」の基地として提供し、アメリカに多大な軍事協力を行ている。また、1965年からタイ共産党が東北タイで武力闘争を始めたこともあり、タイ政府は住民への共産主義の浸透を防ぐため、厳重な監視体制を農村に広げた。当時のことを記憶する人は、子どものときに見た公開銃殺刑が忘れられない、という。彼の記憶では、共産主義者として疑われた村民は簡易な裁判で死刑を宣告され、銃殺されていたという。また、「農作業中に車に乗った軍人らがやって来て、何らかの抗議活動をしていた人々を撃ち殺して走り去った」、と話す人もいる(注6)。

今回のインタビュー中、住民の方に「今のようにこうして話をすることも出来なかった」と繰り返し言われた。当時、ダムについて地域で意見交換をするような状況には全くなかったという。数人で集まって話し合っていたことを密告されれば、共産主義者と見なされ即逮捕された。

住民は事前に村長らからダムについて説明をうけているが、「ダムが出来れば生活が楽になり、二期作が出来る。水没地は政府が補償する」という内容だった。住民はその言葉を信じた、または、信じるしかなかった。他に全く情報がなく、ダムがどういうものか分からなかったのである。村の運営に関わる立場であった人は、政府の行ったダム見学ツアーに参加し、ダム開発が生活向上に役立つという説明を受けて納得して村に帰ったともいう。一方、当時共産党の党員として武力闘争に参加していた男性の話では、「日本の帝国主義に対抗するためダムの破壊を計画したが、民衆の支持を得られなかったため断念した」(注7)という。これらの話から、ほとんどの住民が影響について詳しい説明を受けていなかったことが推測できる。また、計画に疑問があっても、軍人や警察官を恐れ、意見を言える人は少なかった。意見を述べる住民は全て、政策に反対する共産主義者として処罰されていたのである。

移転住民と補償

住民の記憶によると、19の村落が移転をし、20の村落で農業用地や牧畜用の土地が水没している。当時、人口は少なく一つの集落が30‐40世帯程度だったという。移転する村落に対してはニコム(居留地)と呼ばれる代替居住地が用意され、水没農地に対しては面積に従い補償金が支払われた。しかし、インタビューにあるようにきちんとした測量が行われなかった(注8)、また当時は税金を逃れるために登記をしていなかった土地が多かった、などの理由から補償対象になった土地は一部であったと見られる。さらにその補償金を受け取ったその場で、郡長と組んだ詐欺師に「銀行に預けるから」と言われて騙し取られた人もいる。

また、政府の用意した居留地には大きな問題があった。一世帯あたり15ライの土地が割り当てられていたが、そこは住民の言葉を借りると「水田を開いても水が溜まらない、やせた土地で岩だらけ」であり、耕作適地ではなかった。補償金で別の土地を購入、または、水没を免れた地区の人から農地を借りて農業を続けて生活した人もいるが、住民の話では多くの世帯が都市へ労働者として移入したらしい。居留地は放棄された後、最近では別の世帯が移住してユーカリ栽培などに利用している。居留地に残った人は少ない、と補償を訴える住民は話しているが、実態の追跡調査などはなされていない。

住民組織のネットワークであるサマッチャー・コンヂョン(貧民フォーラム)(注9)の資料によると、移転住民は1270世帯約6000人(シリントンダム影響住民救済ワーキンググループ会議第二回:1997年4月24日)。このうちの60%にあたる768世帯が15ライの土地の支給を受けている。また、用意された補償金は39,800ライに対して総額20,343,337バーツであったが、実際に補償されたのは39 、626ライ17,138,309.50バーツだったという(注10)。

30年後に起きた補償運動

「新しい法律が出来ると聞いて説明会にいった。自分たちには正当な補償を要求する権利があること、要求しても逮捕されない、と書いてあった」。貧民フォーラムに属し、今も政府から補償を求めているSさん(男性)はなぜ30年近くも経ってから補償を求めるようになったのか?という問いに対してこう答えた。彼の言う法律とは1997年に施行された新憲法のことである。補償要求運動は施行前の説明会の時期から口コミで始まった模様である。

また、その頃から住民の漁業に対して漁業局の取り締まりが厳しくなったことも要求運動が起きる間接的なきっかけになったようだ。農業で生活できなくなった移転住民のうち一部は、ダム貯水池での漁業に転業しているが、96‐97年頃からこの地区で漁業法の「産卵期間中四ヶ月間の禁漁」が厳しく適用されるようになり、住民の収入に大きなマイナスの影響を与えている。これが要求運動に参加するきっかけになった人も少なくない。そして経済危機も、住民の出稼ぎに影響した。また、騙し取られた補償金の返還を求めるために運動に参加した人もいる。

民主的な憲法の制定、経済危機、生業に対する規制など様々な要素が絡み合い、2,000世帯以上の人々が政府に対し「正当な補償」を求めて運動を始めた。バンハーン政権時代には新たに15ライの農地支給が約束され、次のチャワリット政権時には補償が予算化された(注11)。しかし、続くチュアン政権が「一度補償を受けたダムの影響住民には再度補償は行わない」と閣議決定で補償を覆したのである。その後、政府の救済プログラムに同意して要求を取り下げた世帯が多いが、413世帯は貧民フォーラムに留まり、再度閣議で補償を認めるよう求め、未だにウボンラチャタニ県にあるパクムンダムの敷地を占拠し抗議運動を続けている。出稼ぎに依存する世帯が多く、経済危機以降の生活苦から補償運動が盛り上がったことは否定できないが、不当な扱いを受けたという不満が強くなければ運動が現在まで継続することはなかったはずである。

いずれにしても、人々は身の安全が確保されるまで声を上げることが出来なかった。それには30年の年月を要したのである。その30年の間、生活を立て直せなかったのは自己責任だ、と見なすのは簡単である。しかし、自給的農業から急に都市での単純労働に転業し、次世代は教育の機会を奪われたとしたら、人々はどのように生活基盤を築けば良かったのか?また、現地に留まって補償を要求する人だけではない。居留地から離散したと見られる人々がその後どうなったか、誰も知らないのである。

貧民フォーラムの住民は、補償を通して政府が「社会的正義」を実現することを求めているのだという。補償金は満足できる金額ではなく、生活は急激な変化を余儀なくされ、その上約束された灌漑のもたらす豊かさも近隣の別の地域に配分された、と訴える人々の発言を私たちは重く受け止めるべきだろう。

付記:住民インタビュー(人により記憶する年号などにばらつきがある)

ケースA/P・Nさん(女性55歳)

1967年に地域の区長・村長からダムの計画があることが知らされた。説明によると、ダムが出来ると米の二期作が可能になり生活が良くなるとのことだった。また、水没による移転が発生した場合、政府が責任を持ってよい土地を用意するといわれた。現在はブンタリック郡のウドムチャルン村で生活しているが、ダムが建設される前はドーム村に住んでいた。そこで約150ライを持っていたが、補償を受けたのは30ライのみであった。1ライあたり300バーツの補償金が支払われた。日本政府はタイ政府にライ当たり3万バーツの資金を提供したと聞いている。しかし、私たちは300バーツしかもらえず、きちんとした測量も行われなかったので、所有地の一部しか補償されなかった。当時のことだから、役人は歩いて広い農地を測量したりしなかった。村にきて適当に数字(面積)を決められた。移転した3年後には居留地を捨てた。ニコム3区と呼ばれる場所であり15ライの森林地を提供されていたが、土地が農業に適さず、放棄するしかなかった。ニコム2区の方がまだ土地がましだった(それでも農地としては良くない)ので、未だに住んでいる人がいるが、1区と3区はほとんどの人が離散するはめになった。子どもは6人いるが、今、家族は12ライの田を所有しているのみだ。建築労働をしたお金で買った。権利書はソーポーコーだ。補償金は生活に使ってしまった。1973年からバンコクに出稼ぎに出ることとなった。当時、日当は35バーツ。女性である自分も働きに出た。今も子どもたちは6人ともバンコクに出稼ぎに出ており、田植えの時期だけ帰ってくる。1996年、バンハーン政権の時期、村いた娘から電話があり、補償要求運動がはじまったことを知った。その時期から反対運動に参加している。運動に参加したのは、政府に「騙された」という思いが強いからだ。30年も経って、と世間が言って、要求を受け入れてくれなくても構わないと思った。不正を訴えたかった。現在、413世帯が補償を求めている。チュアン第二政権の時期、2000世帯以上が要求に立ち上がったが、今その多くが政府プロジェクトに参加し、要求を取り下げた。

ダムが建設された当時、集会などは全く出来なかった。今こうして座って話しているように数人で集まっただけで、コミュニストということで、逮捕されたからだ。反対運動どころか、公に何か要請することも出来なかった。今は自分の村と反対運動をしているメームンマンユーン村(パクムンダムのサイトを占拠している抗議村)を往復して生活している。村には孫が四人いる。自分と、自分の高齢の母が孫たちの面倒を見ている。当時、コミュニストを防ぐために貯水池を作るのだ、とも聞かされた。できればダムの水を抜いて土地を返して欲しい。そうすれば政府もお金をかけて補償地を探さずとも良い。皆にとって良い。あの時も政府は、補償された土地に何人残ったか、補償地の人がどんな生活をしたか、きちんと追跡すべきだった。責任があったはずだ。1996年から漁業局によって貯水池での取締りが始まった。また、水没した木を水中から切り出して生活の足しにしていたが、それも会社などに権利が販売されてしまって、住民が切ると逮捕されるようになった。住民が何をしても逮捕され、生活が立ち行かなくなった。

ケースB/N・Pさん(男性68歳)

ピブンマンサハン郡ノーンクーン村に住んでいた。村は貯水池に水没した。ニコム・ドムノイと呼ばれる移住地に移ったが1年で逃げ出した。その後は所有していた約60頭の牛と30頭の水牛を売りながら生活した。1975年にブンタリック郡ノーンソンブン村に移った。水没を免れた人たちから37ライの農地を購入した。ライ当たり300バーツだった。補償金だけでは足りなかったので、牛などを売ったお金を補填した。私は1 、7000バーツの補償を受けたが、自分の手に残ったのは7 、000バーツだった。1万バーツは郡長と一緒に来ていた銀行員だという男に預けたところ、詐欺にあってしまった。当時は銀行など行ったこともなく、遠距離だったので、「銀行に預ければ利子がつく」などとうまいことを言われて信用してしまった。子どもは高専を卒業した。24歳からバンコクに出て働いているが、今は36歳になった。3人の子どものうち、一人がバンコクに出ている。一人は村に残り農業をしているが、もう一人は教師になっている。バンコクにいる子は村に帰りたがっている。補償運動に参加している。盗まれた補償金を取り返したかったからだ。しかし、証拠となる書類も遺失してしまったので、土地の補償を受けることにした。当時、満足しようがしまいが、政府の用意した補償を受けざるを得なかった。放牧地も含め300‐400ライの土地を所有していたが、補償を受けたのは25ライのみだった。ライ当たり300バーツが支払われた。所有地のうち、約50ライが水田で、ソーコー1の権利書がそろっていた。しかし、それにも満たない金額しか支払われなかった。ダム貯水池で漁業をしてもいたが、取締りが始まったので出来なくなった。生活することができず、政府に対して「正義を求めるため」補償運動に立ち上がった。今は15ライの農地を要求している。バンコクにデモに行ったこともある。今はパクムンダムの横、メームンマンユーン村で座り込みを続けている。

ケースC/S・Kさん(男性71歳)

このダムから灌漑などの利益を受けた人の方が被害者より多いだろう。でも、犠牲になった人は家や水田、畑、放牧地、そして(食料採取をする)森林を失った。昔は牛や水牛は面倒をみなくても放牧しておけば良かった。補償金を受け取ったが額が少なかった。1ライ当たり500バーツを貰った地区もあるが、貰えなかった人もいる。ダムが出来たころの役人は正直者ではなかった。日本が補償金を払ったのだろうけど、自分たちは受け取られなかった。補償金の受け取りのとき、詐欺にあった人もいる。本物の銀行員も来ていたけれど、偽者に当たった人はずいぶん取られてしまった。運動を始めるとき、車に乗って「補償を受け取るぞ」と村々を廻った。口コミで話が広がって、運動がはじまった。あの頃、法律(憲法)が出来て、県庁に行くと書類が貰えた。弁護士などが説明会を開いてくれた。そこに、補償を求めても捕まらない、と書いてあった。財産を失ったら補償を受ける権利があると書いてあった。当時、66頭の水牛35頭の牛を飼っていたけれど、放牧地もなくなり子どもの学費に当てるので売っていった。途中で無くなって、子どもは卒業できなかった。お金が足りなくなったので。そのうち、1995年から水産局の取締りが始まった。雨期の産卵時期に漁業が出来なくなった。捕まってしまう。それで、食べていけなくなった。

支給された農地には水が溜まらず、水田が出来なかった。米を作ってみたけれど、収穫出来なかった。農業ができなかったので、放棄して逃げ出した。単に放棄した人もいるし、売った人もいるし、そこを買った人もいる。

  1. EGAT「シリントンダムの29年」

  2. タイの土地の単位。1ライ0.16ha。

  3. 借款契約日1969年12月18日、総額1342百万円、金利4.50%で償還期間19年(据置期間5年)条件:タイド。「ラム・ドム・ノイ水力発電事業(2)」1971年1月20日 329百万円、その他条件は第一回目と同じ。

  4. 現在はタイ発電公社(EGAT)に改編されている。

  5. 末廣 昭「タイ 開発と民主主義」

  6. インタビュー中の住民らの話。文書などの記録はない。

  7. 付記参照。

  8. 付記参照。

  9. 立ち退きやダムの影響などを受けた住民らが結成した全国的な住民運動のネットワーク。

  10. Southeast Asia Rivers Networkホームページ:貧民フォーラム、「ウボンラチャタニ県シリントン郡シリントンダム ‐シリントンダム後の人々の汗と涙の生活‐」

  11. 土地購入の予算はチャワリット政権時代に国庫から支出され、農業共同組合省の預かりになっている模様である。現政権が閣議決定すれば土地の購入に当てられる。

**現在、メコン・ウォッチではこの案件を直接モニタリングしておりません。関連ニュースは適宜メコン河開発メールニュースでお知らせいたします。また、最新情報をお持ちの方の情報提供をお待ちしております(最終更新日2006年3月)**

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