パクムンダムは、世界銀行の支援により1994年、タイの東北部、メコン河支流のムン川に完成した発電を主な目的としたダムです。事業主体はタイ発電公社(EGAT)。136MWの発電能力があるとされていますが、実際はその半分も発電していないと指摘されています。水没による移転者は少なかったものの、完成後に漁業被害が広がり、大規模な反対運動が起きました。現地住民は当初は漁業補償、1999年からは「不充分な補償より自然を返せ」とダムの水門永久開放を求めており、今も約5千世帯が被害を訴えています。タイ政府は2003年から住民の要求を一部受け入れ、年間4か月間の水門開放を事業主体に命じています。しかし、その成果は充分とはいえず、漁業に依存して生活する流域住民は困難な生活を強いられています。
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タイ東北部のウボンラチャタニ県を流れるメコン河の支流、ムン川河口近くに建設された、水力発電を主な目的とするダムです。発電能力は136メガワットで、大型デパート5軒分の電力をまかなう程度の規模です。しかし、実際には乾季の水不足や雨季のメコン河からムン川への逆流で計画発電量の半分以下しか発電できていません。
その一方で、ダムによって影響を受けた人たちは、完成後から現在も困難な生活を続いています。メコン河の魚は季節ごとに各支流に移動し産卵などを行います。ダムはメコン河とムン川の魚の移動を妨げました。影響を緩和するための魚道(Fish Ladder)は、百数十種類に及ぶ魚種からなる大量の漁業資源の移動を助けるものとはなりませんでした。タイ発電公社(EGAT)はエビを放流するなど、対処策をしましたがダムの貯水による水質悪化などで効果は限定的です。
当初は262世帯が移転対象と言われていましたが、実際には912世帯がすでに移転し、更に780世帯が土地の一部もしくは全てを失っています。また、漁業被害を受けたとして抗議を続けている住民は6000世帯を超えています。
漁業を中心とした生活への無理解から、政府や都市住民から「補償目当て」との批判を受けた影響住民たちは、1999年暮れから要求を補償金ではなく「ダムの撤去」に変え、お金目当てに抗議しているのではなく、生活を取り戻すために闘っているという姿勢を打ち出しました。この訴えが大きな共感を呼び、また、1999年から2002年に及ぶ長期のダム敷地の非暴力占拠といった抗議行動によって、政府も被害を一定認めざるを得ず、年間4か月というEGATとの妥協のもと、ダムは運転されています。
このようにタイ社会に大きな負の影響を与えたプロジェクトに対し、世界銀行は1991年の理事会で融資を決定しました。その際、事前に独自の環境影響調査をしていたアメリカの理事をはじめ、ドイツ、オーストラリアが反対、カナダが棄権をしましたが、日本の理事は強い賛成の意思を表明したと言われています。それだけでなく世界銀行は、元々のプロジェクト計画では2万5千人が移転を迫られるはずだったが、「社会環境影響を考慮して被害を最小限度にした」むしろ良いプロジェクトだった、と積極的に評価しているのです。
ダムに反対する住民の抗議行動は20年になろうかとしています。今も5000世帯以上が影響を訴えています。
2010年12月、パクムンダムを巡って、再び画期的な報告がなされました。 タイ政府のパクムン問題解決委員会の作業部会は、委員会に対して「パクムン問題解決に関する調査研究のまとめとその真偽についての報告」を提出し、委員会はそれをタイ政府に提言したのです。2010年12月末、政府の要人が現地を訪問、この提言を2月の閣議で検討すると人々に約束しました。住民側は引き続きこの動きを見守るとしています。(2010年12月)
2010年7月、パクムンダムの影響を訴える住民たちは、1世帯1バーツ(約2.7円)ずつ平等に出しあい、水門開放を求める垂れ幕を作りました。タイはタクシン政権崩壊後、数年にわたって政治的に大混乱していますが、現アピシット政権はその解決のため改革委員会を設立しています。そしてそこには、パクムンの村人代表も加わっています。垂れ幕は水門開放時のダムをバックにした漁師の写真をベースに、政府の取り組みに掛けて『パクムンダムの水門開放によってタイの改革を実現−XX村、貧民会議』と記されています。この垂れ幕作成には65村が参加、各村に配布され集会場などに掲げられました。(2010年8月)
住民の強い運動で年間4か月の水門開放が行われているパクムンダム。2007年に起こったタイの政治的な混乱のあおりを受け、開放は本来決められた5月初旬ではなく、8月12 日にずれ込みました。昨年は、5月から6月ピークを迎える回遊魚のムン川への遡上(そじょう:魚が川をさかのぼること)を完全に逸してしまいました。パクムンダムの問題点は支流ムン川と本流メコン河の魚の移動を妨げ、流域の漁業資源に大きな影響を与えた点です。ムン川下流域では今年になっても、ダムが通年で閉鎖されていた時と同様な不漁が続いています。(2008年2月24日)
クーデターによる首相追放後、政治的混乱が続くタイでは5月末に、タクシン首相の作り上げたタイラックタイ党(タイ愛国党)を解党する判決が憲法裁判所から出されました。政治的な混乱は、パクムンダムの建設により被害を受けた住民たちにも及んでいます。タクシン政権時代の2003年、漁業資源への配慮で年間4か月の水門開放が閣議で決まりましたが、今年はそれが理由無く延期されました。住民の強い抗議の結果、1か月半遅れの6月17日に水門は完全開放されます。住民グループのネットワークである貧民会議はダムを管理するタイ発電公社が閣議決定を遵守せず「タイ国内で独立政府のように振舞っている」、と強く批判しています。(2007年6月15日)
パクムンダムが引き起こした問題を根本的に解決するために設置された政府特別委員会『ムン川流域コミュニティの天然資源・生計発展委員会』(座長=チャイアナン・サムットパワニット/タイ発電公社理事)が、9月27日に会合を持ちました。しかし、タイ発電公社(現在は民営化され、タイ発電会社)の反対で地域復興プランを打ち出せず、魚の回遊を守るために開放されていたダムの水門は、10月1日に閉鎖されました。
パクムンダムのあるウボンラチャタニ県内は、雨季が終わったばかりでまだムン川の水位は非常に高く、水門が閉まったことで更に水位が上がりました。タイ発電公社は各村落の村長に9月21日になってから「海抜何メートルかまで水位を上げる」と文書で知らせたのみでした。通達期間が短かったため、水田の一部は稲刈りが間に合わず、また、漁具にも被害が出ています。ダムに反対する住民グループが中心となり損害をまとめ、県に訴える予定ですが、今までダムの水門開閉で生じた住民の損害に対して補償が行われたことはありません。(2005.10.17)
パクムンダムに向かって行進する住民と支援する
学生グループ。
(2005年9月19日撮影)
9月19日、ダム問題の解決のために設置された政府特別委員会「ムン川流域コミュニティの天然資源・生計発展委員会(チャイアナン・サムットパワニット氏、EGAT理事が座長)」が各方面の代表を集めて話し合いを行うのにあわせ、ダムに反対する住民が地元で抗議集会を開きました。人々は、この会合に向けた話し合いの中で、「ダムの水門が開いていれば自立的な生活が送れるが、閉まっていれば漁や川の資源利用ができない。ダムを使用するのであれば、その間の生活補償をすべき」という要求をまとめました。会議は具体的な合意をみず、翌週に持ち越されました。 (2005.9.20)
2005年に水門を開いたパクムンダム。
(2005年8月8日撮影)
政府が委託した調査が5年間の試験的水門開放を提言したにもかかわらず、それが無視され、年間4ヵ月の水門開放が2003年から実施されているパクムンダム。2003年は7月から10月まで水門が開いていましたが、メコン河からの魚の回遊は6月に終わってしまっており、ムン川での漁業は不振でした。また、2004年は「回遊に合わせた開放を」という住民の要請で水門開放時期が5月からに変更になったのですが、実際に水門が開いたのは6月中旬でした。
2005年、パクムンダムの水は灌漑にほとんど利用されていないにもかかわらず、事業主体のタイ発電公社は旱魃を理由に水門解放を1ヶ月遅らせました。しかし幸運なことに、回遊魚の多くがムン川をさかのぼることができたようです。多くの村では漁業が再開し、村人の収入も向上しました。何よりも、魚が食卓に上ることで、家計からの支出が抑えられることが人々の生活状況を改善しています。(2005.9.17)
政府関係者に水門の早期開放を求める書簡を渡す
住民代表。
(2005年5月18日撮影)
2002年から年間4ヵ月水門開放を行って運転されることになっていたパクムンダム。昨年、住民の要請が実り、メコン河からの魚の回遊に合わせた5月1日からの水門開放が決まっていました。しかし、タイ発電公社(EGAT)は突然、「ダムのあるウボンラチャタニ県が旱魃のため水不足で、県から水門開放の保留の申し入れがあった」と開放を延期しました。また水門開放の時期は県の委員会が決めるので、EGATには決定権はない、と主張しています。
その上更に、県の委員会が5月13日に水門開放の決定を出したにもかかわらず、18日になっても水門を開きませんでした。
パクムンの影響住民は、ラムタコン揚水発電所の建設で健康被害を受けた住民や、他のダム問題の影響者と共に、5月13日からバンコクの議会前でテントを張り、座り込みを始めています。路上に座り込む人々は、背景を知らない都市住民に疎まれ、時には渋滞を悪化させると非難されることもあります。世界銀行の支援プロジェクトは、地域住民を貧困化させただけでなく、タイ社会に亀裂を生む役割も果たしています。パクムンダムが発電している今も、ウボンラチャタニ県は頻繁に停電します。また、世界ダム委員会の行った事例調査でパクムンダムは「計画された半分も発電していない」、とも指摘されています。(2005.5.18)
首相府付きサンサニー広報官は首相府で、エネルギー省とタイ発電公社(EGAT)から要請があったパクムンダム水門開放期日の変更が閣議で了承されたと発表しました。いままでの開放期間は、7月1日から10月31日でしたが、今後は5月1日から8月31日となります。これは、メコンからの魚がムン川をそ上する時期のピークとほぼ合致します。現地では多くの村人が漁を始め、川はひさしぶりに賑わいを見せているといいます。(2004.6.8)
水門は7月から開放され、10月末で閉められました。
多くの漁民が、ダムの水門が完全に開いていた2001年の同時期と比較して漁業収入が半分以下に落ち込んだと話しています。水の流れが強すぎ、水門が開いていた4ヶ月のうち1ヶ月しか漁期がなかったそうです。現地では、「この時期に水門を開いても住民にほとんどメリットはない」という声が大きくなっています。(2003.12)
2003年の水門開放が始まりました。ダムの水門開放は予定よりも1日早い6月30日に始まりました。約1週間前から徐々に貯水池の水位が落とされたため、上・下流ともに大きな影響はありませんでした。昨年11月に水門が閉鎖されてから、地元漁民は漁業不振に苦しんでいます。ダム下流の漁師は、魚がムン川に戻るかどうかはしばらく様子を見てみないと分からないと話しています。(2003.7.1)
水門閉鎖時のダムと使われていない魚道
(2003年6月18日撮影)
ダム影響住民はパクムンダムの水門開放時期の前倒しを要求するべく、カンボジアとタイによる合同内閣会議が東北タイで開催された折に、タイ政府に要請書を送りました。住民によれば、すでに大量の魚がムン川に集まりはじめ、ダム下流でそ上のタイミングを待っているといいます。(2003.5.30)
ダム下流で、水門が閉まり流れの止まった
ムン川を見る漁民
(2003年5月撮影)
タイ政府は年間4ヵ月の水門解放を決定しました。一方、地元漁民や研究者の間では「4ヶ月は無意味」との意見が大勢でしたが、それを裏付けるような漁業不振が続いています。ダム下流のメコン川とムン川の合流点にある村の漁師は、毎晩午前1時にムン川に出かけ網が流されないよう朝まで川の水位変化を見守るといいます。不規則なダムの放水を見張ることが新しい仕事になった、という皮肉を込めた疲れた声が多くの漁民から聞かれました。ダムの上流は更に深刻で、ほとんど魚が獲れず住民の生活を圧迫しています。(2003.5)
政府の一方的かつ限定的な水門開放の決定に抗議して首相府前で座り込みを続けていた住民たちが、バンコク都の職員によって強制的に排除されました。
29日、タイ時間午前9時半、サマック都知事率いる都職員約1000名が首相府前の路上に作られた住民のテントや小屋を次々と撤去、ごみ収集トラックに積み込んでいきました。撤去は約3時間で終了。住民側は非暴力を貫き撤去に抵抗せず、自ら荷物をまとめ路上で様子を見守ったのでけが人、逮捕者は出ませんでした。都は、住民の帰宅用にバスを用意していましたが、住民側は「自らすすんで来たのだから都知事を煩わせず自分たちで帰る」と宣言、バスを使わず、徒歩でバンコク中央駅まで向かいました。今回出動したのは、違法屋台の取締りなどを行う都の職員です。警察業務であるはずのデモの撤去を都が条例をたてにその職員を使って行ったことで、NGO関係者は、憲法で保証された集会の自由が侵害された、と政府を批判しています。(2003.1.29)
タイ政府は閣議で「貧民フォーラム問題解決委員会」が答申した年間4ヶ月の水門開放(7−10月)を閣議で再確認しました。政府は、自ら行った世論調査の結果によって「大多数の住民はこの決定に満足している」と発表。今後は漁業局や灌漑局が住民の生活向上のためのプロジェクトを実施するといっています。しかし住民側は、この調査がダムの被影響地で行われたものであると反論、ウボンラチャタニ大学の調査結果を元にダム運営を決定すべきだと抗議を続けています。(2003.1.14)
タクシン首相は24日、ヘリコプターと高速船でムン川の視察を行いました。しかし、この日もダムの運営について結論は出しませんでした。バンコクからヘリコプターでダムの現場を訪れたタクシン首相には、ネウィン副農業大臣とポンテープ・エネルギー大臣、住民の代表2名も同行しました。首相は集まった記者に「住民生活の向上を考えれば金銭は重要ではない。私に言わせれば金銭は幻想で、生活こそが現実だ」と語ったといいます。(2002.12.24)
首相府前でダムの水門開放を求める住民たち
(2002年12月19日撮影)
20日、タクシン首相はパクムンダムの住民と直接対話を行い、その模様がテレビで生中継されました。首相はその日に結論を出さず、24日にヘリコプターでの現地視察を決めるにとどまりました。
対話ではまず、約3時間かけて大学や発電公社、住民が行った調査について説明がありました。その後、首相と住民は1時間以上直接対話を繰り広げました。最終的にタクシン首相は、その場で電子手帳を開きスケジュールをチェック、火曜日の閣議を休んで現地視察をすることを決めました。住民が、「水門が閉まっていて早瀬など川の本来の環境が見られない」と主張すると、首相はその場でエネルギー省大臣に水門開放を命じました。しかし、この急激な放水でダムの上下流で激しい岸の崩落が起きています。(2002.12.20)
焼き討ちにあった村(Assembly of the poor提供)
1999年からダム問題を訴えるため、その敷地を占拠して作られた「メームンマンユーン(悠久なるムン川)村」。多くの住民がバンコクへ抗議に向かった隙をつき、約20人の男たちが武器とガソリンなどを手に村に侵入してきました。村の小屋の大部分が撤去されたといいます。学校として利用されていた建物なども壊されました。中にあった本や生活用品は周辺に散乱している状態だということです。けが人はありません。
5日の午前3時ごろには首相府前で抗議を続ける住民のテントが何者かに破壊される事件もおきています。(2002.12.15)
パクムンダムの水門がおろされました。
予告された11月1日にダムは閉まらず、4日の夜になって閉鎖されたことになります。事前通告がなかったため、漁民の船や漁具が流され回収できなくなっています。流された船は、ダムのあるフアヘゥ村だけでも、100隻以上になるといいます。首相府前で抗議を続ける住民は、5日の午前中、首相府内に入って交渉しようとしましたが、警官隊に押しとどめられ、にらみ合いが続いています。(2002.11)
ポンポン・アディレークサン副首相が委員長をつとめる「貧民フォーラム問題解決委員会(ポンポン委員会)」はこれまで全く機能しておらず、住民の突き上げで別の委員会が作られました。フォーラム側はこの委員会と話し合いを重ねており、同委員会は調査結果をまとめる部会を作り作業を進行させてきました。ところが、ポンポン委員会がにわかに会議を開き、政府の委託で1年以上かけて行なわれたウボンラチャタニ大学の調査結果を無視し、被影響住民欠席の場で「水門4ヵ月開放(7−10月)」を一方的に決定しました。被影響住民・貧民フォーラム側は、大学の調査も含めた全ての結果から解決策を検討すべきで、委員会の一方的な決定を無効にするよう政府に求めています。しかしタイ政府は、その後の閣議で委員会の決定を黙認しています。(2002.9.24)
首相府前で政府に書簡を送ろうと集まった住民たち
(2002年9月23日撮影)
パクムンダム影響住民ら約70名は23日、首相府前でデモを行ないダムの水門永久開放を求めました。住民は9月17日からもウボンラチャタニの県庁でデモを行ないましたが、19日に建物のフロアに入ろうとしたため、警官隊によって県庁から排除されています。(2002.9.23)
トゥム・ヤイを仕掛ける漁民、コータイ村にて
(2002年6月撮影)
ダムの水門解放後、川の環境の一部は劇的に改善しました。住民もダム建設後、諦めていた一部の生業を再開しました。
ムン川下流域には、群で回遊するプラーヨンと呼ばれる魚が多く見られます。この魚を取るために発達したトゥム・ヤイ(またはトゥム・プラーヨン)という漁具は、長さが7メートルもある大きなものです。ダム上流のピブンマンサハン郡コータイ村ではダムの水門開放により、2002年5月から再びこの漁を始めています。最盛期には一度に100ものトゥム・ヤイが仕掛けられたといいますが、再開したのは10世帯ほどです。現在の漁獲高は1日3キロほどだといいますが、地元の漁師はダムが出来る前のように、数十キロの魚が入る日を心待ちにしています。(2002.6)
ダム脇の川岸に集まり儀式を行う住民。
(撮影:木口由香、2002年6月13日)
パクムンダムの水門が開いてから一年が経とうとしています。今月に入ってからはEGATによって水門閉鎖の準備がすすめられています。一方、ダム建設によって漁業や生業に影響を受けた人々のうち約2000名が、ダムを望む川岸に集まり水門永久開放を求める祈りの儀式を執り行いました。 人々は手に手に花とお供えのろうそくを持って、抗議運動のためにダムサイトを占拠してつくられた「悠久なるムン川の村」から徒歩で川岸まで移動しました。ダム建設後、若年層はほとんど都市に出稼ぎに行っているため、参加者のほとんどは高齢者と親の出稼ぎのため祖父母と村で暮らす小学生以下の子供たちです。人々は川に向かい、この世の全ての精霊たちに川の回復を祈ったといいます。 その後、「貧民フォーラム問題解決委員会」の座長であるチャワリット副首相が政府の委託したウボンラチャタニ大学の調査が終了するまで水門開放を継続するよう指示したことを明らかにし、開放は8月まで延長されました。 (2002.6.13)
村人が河岸に築いた仏塔。
(撮影:木口由香、2002年4月20日)
ダムが建設される前、村人たちは「ナオ・ゲン」と呼ばれる水かけ祭りの際の行事を早瀬(ゲン)のある河畔で執り行っていました。水かけ祭りはタイの人々にとって本来のお正月です。しかしダム建設後早瀬は水没し、川と伝統行事は切り離されていました。 今年の一時的な水門開放のおかげで村人たちは再び川に集いました。僧侶を河畔に作った小屋に招待、大人も子供も総出で魚や貝を捕りその場で料理をしてお布施のための食事を作りました。僧侶の食事が終わると集まった人々も会食をし、その後、河岸に砂で仏塔を築いて一年の無事を祈ります。一年で一番暑い時期に行われるため、祈りが終わると子供たちを筆頭に次々に川に入り、水を掛け合って暑さを忘れるひと時となりました。(2002.4.20)
村人に川辺川ダムの問題を報告する寺嶋さん。
(撮影:木口由香、2002年3月25日)
川辺川ダム(熊本県)の反対運動を支援している寺嶋悠さん(子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る福岡の会)が、川辺川の皆さんからのメッセージを携え、「悠久なるムン川の村」を訪問しました。川辺の問題を報告した後、日本からのメッセージを読み上げると、集まったダム影響住民の方々から次々と共感の声があがりました。 パクムンの男性は、「私は国中の、そして世界中のダム建設に心を痛めています。どのダムにも問題があって困難をもたらしています。しかし、人々がその影響を知るのはダムができた後なのです。ダムに反対する人、賛成する人も出て地域は分裂します。パクムンダムは世界中の人の反面教師になっていて見学が絶えません」と語り、ダムを作らせないで、とエールを送りました。(2002.3.25)
ダムの脇に集まる住民。
(撮影:木口由香、2002年3月17日)
世界反ダム・デイ(3月14日)に呼応して、各地でイベントが開催されています。ムン川では17日に、パクムンダムに反対する住民によってダムの水門開放の願いを記した記念碑が川岸に立てられました。 また人々は、普段はダムの貯水池の底に沈んでしまう川岸に集まり、水の停滞で繁殖している外来種の雑草 (Mimosa pigura) を刈り取って燃やし、川の生態系の回復を祈りました。(2002.3.17)
きれいな川が戻ってきた。
久しぶりに子どもが川で遊ぶ様子が見られた。
(撮影:木口由香、2001年12月20日)
パクムンダムの水門が開放されてから半年以上が経過、乾期に入り川の水位が下がってきました。ゲン(早瀬)のかなりの部分が水面に現れ、川は昔の面影を取り戻しつつあります。村々では、ダムが出来る前のように漁業を始める人たちも出ています。人々は再び川を利用できるようになりました。漁をすることだけではありません。夕方になると、ゲンのある村では子ども達がそこで水遊びをしたり、魚をとったりしています。川で洗濯をしていたおばあさんは、「今年は川の水に触れてもかゆくならない(発疹ができない)」と喜んでいました。12月11日には、地元大学が行なっている環境・社会への影響調査を完成させるため、政府はパクムンダムの水門を一年間開放する決定を下しました。貧民フォーラムの住民たちは、水門が閉められる来年6月まで、東北タイの中でキャンペーンを行う予定です。(2001.12.25)
水門が開いたパクムンダム。
この段階では電力公社の抵抗で一部しか開かれていない。
(撮影:木口、2001年6月4日)
6月2日夜、パクムンダムの水門が開き貯水池の水が完全に抜かれました。水の抜けたダム上流部では、ムン川に特有の地形であるゲン(早瀬)が水の中から顔をだし、付近の村人たちは周辺に集まって漁をしています。川岸には魚を買い付けに来る人もあり、ダム周辺は賑わいを見せています。今後、政府委託調査を担当するウボンラチャタニ大学の研究者らのチームが、現地の自然・社会環境の回復に向けた基礎データの収集にあたることになっています。
2日現在、ダムの水門は完全には上がっておらず、水面から数メートルのところで止められていました。貧民フォーラムは「閣議決定に従うのであれば、水門はダム本体より上の位置で固定されるはず。EGATは夜中に水門を下ろして魚の遡上を妨害するのでは」と抗議しています。一方EGATは、貧民フォーラムが占拠している抗議村の敷地を返還するよう求めていますが、フォーラム側は調査が終わるまでは現在の場所にとどまり監視する、として立ち退きを拒否。その後、14日になって水門は完全に開放され、NGOらの調査により魚の遡上も確認されています。(2001.6.30)
パクムンダムの住民と儀式に臨むタクシン首相。
(撮影:木口、2001年5月25日)
5月25日、タクシン・チナワット首相はウボンラチャタニ県ムン川流域にあるパクムンダムを訪問、ダムの水門開放を指示しました。この水門開放は、前政権の設置した中立委員会の答申を受け、現政権が閣議決定したものですがEGATは「開放に反対する住民がダム下流に座り込んでいて放水できない」とし、政府の指示に従いませんでした。首相は、ダムサイトにある抗議村「悠久なるムン川村」で、ダムに抗議する貧民フォーラム側の住民と川の神にお供えをする儀式を執り行いました。
現場では首相訪問の数時間前から大勢の警官が配備されました。開放に反対する住民に心理的圧力をかけるためか、上空をヘリコプターが低空で何度も旋回、物々しい雰囲気となりました。川の中州で座り込む住民は口々に貧民フォーラムを非難しており、興奮した様子で怒鳴る人もあります。一部タイ字紙の報道によると、この人たちはダムのあるフアヘゥ村から来ており、EGATに雇われて水門開放を妨害しているということです。また、自分たちのダム上流での養殖が水門開放により悪影響を受けると主張しています。現地からの情報によると、28日には8つのうち2つの水門が20度ほど持ち上げられましたが、30日に再び閉められています。(2001.6.6)
襲撃者に焼かれた家。
(撮影:木口由香、2000年11月20日)
2000年11月19日、パクムンダムによる被害を受けた住民が作っている村が、棒を手にした数十人の男の襲撃を受け、30人ほどが負傷し3人が重傷を負いました。住民たちは襲撃を行った集団はタイ電力公社(EGAT)に雇われていたとして反発しています。
「メー・ムン・マン・ユン(永遠なるムン川の村)」は、パクムンダムによって被害を受けた住民がダムサイトの横に作った抗議村で、1998年の終わりから約3000人の影響住民が住み、抗議活動を続けてきました。EGATはこれまでにも村人の排除を図り、2000年5月には警察や自警団を組織し退去を求めるなど、緊張した状況が続いてきました。
襲撃は、男性が農作物の収穫のために村を離れ、女性と高齢者だけが現場に残っている時間に行われました。集まった襲撃グループは、住民に対して村からの退去を求め、抵抗する人には棍棒・ナイフや投石による暴力をふるったほか、道路に面した家々に火炎瓶などで火をつけ、学校を含むかなりの家屋が全焼しました。EGATは住民に退去を求めたことは認めているものの、投石をはじめ家屋に火をつけたのは興奮した村人自身だと主張していますが、村人たちはEGATによるいやがらせだとして非難しています。
家を焼かれた住民は、米や服、毛布など生活に最低限必要な物資を失ってしまい、他の住民グループなどが当面必要な物資の支援などを開始しました。現在タイでは総選挙を前にして政治的に不安定になっているため、再度襲撃が行われる可能性も否定できません。今後も事態を注視する必要があります。(2000.11.30)
衝突によって重傷を負った住民
(カオソット紙、2000.7.17)
2000年7月19日現在、パクムンダムによって生活や漁業に影響を受けた住民など約1500人が、タイ首相府前でデモなどの抗議活動を行っています。住民は政府に対し、6月に内務大臣が設置した中立委員会による「雨季の間の水門開放」という勧告を遵守するよう求めています。しかし、タイ政府はこの勧告に従わないだけでなく、16日には警官隊が非暴力の抗議住民たちに催涙弾を使用するなどして40人あまりの重軽傷者を出し、続く17日には女性や子どもを含む200人以上を逮捕しました。これに対して、タイの民衆組織・NGOは2万人程度の応援住民を全国からデモの舞台となっている首相府前に集めることを決めました。1992年5月、民主化デモに対する軍の発砲によって大勢の死者・行方不明者を出した「5月事件」のような大規模な流血の惨事につながる懸念を持っている人たちも少なくありません。
メコン・ウォッチは、流血事件の翌日である17日にはパクムンダムに融資した世界銀行を管轄する大蔵省に対して緊急の要請を行い、また21日には、タイのチュアン首相に対して、(1)暴力によらない解決、(2)中立委員会の勧告の遵守を求める要請文を、国会議員とNGOや市民との連名で提出しました。
メコン・ウォッチでは今後も、タイの民衆組織・NGOと緊密な連絡を取りながら、タイ政府が暴力的な手段によって解決を図ることを防ぎ、中立委員会の決定に従ってパクムンダムの水門開放を実現するために活動していきます。(2000.7.19)